あなたがわたしを忘れても:RE②

承前

「シメて200万マニーだ。びた一文負ける気はねぇ。」

「見事なお仕事です。感服いたしました。」

深いシワの刻まれた厳しい顔を苛立ちに歪めるのは、見るからに職人と言った風体の壮年。恭しく差し出された金貨の袋を赤銅色の腕でひったくるように受け取ると、舌打ちを一つ。

「……気にいらねぇな。どこから出てきた金だ?こいつぁ。汗水垂らして、テメェで稼いだもんじゃあるめぇ。」

対する線の細い男は、ただ頭を下げて感謝の言葉を繰り返す。

「いい身分だぜ、まったくよぉ。その歳でこんな奥まった屋敷でよ、隠居でも決め込もうってのか?なにが教会だ。聞いて呆れるぜ。」

めいめいに引き上げていく彼の弟子たちの中には、ほんの小さな子供も混じる。血の繋がりは感じない。職人の腕と技が、この集団を繋ぎとめているのだろう。

「テメェみてぇな奴に誰が救えるッてんだ。」

職人の後ろ姿を見送る男の目には、眩しがるような憧憬が浮かんでいた。

***

整然と二列に並んだオーク材のベンチの間をワインレッドの絨毯が走り、ささやかなステンドグラスから差し込む柔らかな日差しが真新しい十字架を照らす。時間前まで廃屋同然だったとは誰にも思えぬであろう。稀代の名工・キキーン・ウェーテルモナー一派の確かな仕事であった。

「ツッコミってのはガラじゃないンだけどね。誰にも思えぬであろう、ってレベルじゃないだろ。あっという間に人の生活動線塞ぎやがってあのクソオヤジ。」

「地下室の出入り口でしたら、あちらに階段がございますよ。」

「近いんだよ、こっちの方がさ。」

床に穿たれた大穴から上半身を出して頬杖をつくのは悪の科学者、フー・ダシガラット。生活動線──すなわち地下に築かれた彼女のラボと地上とを結ぶ最短経路は、張り替えたてツヤツヤのフローリングを犠牲として再び結ばれた形である。邪悪そのものの所業であった。

「つーか、リアクション薄いなオイ。もう少し喫驚して貰わないとさ、この、床板バキッての。割と自慢のネタなんだけど?」

「ご期待に添えず申し訳ありません。」

「……ま、報われない仕事だわね。散々愚痴を聞かされて、あんな捨て台詞まで吐かれる始末。おまけに工賃ぼったくられるわ。」

「実に適正な料金だと思えました。それに、――」

伏せた神父の眼に浮かぶのは、その仕事の大半を終えた職人の後ろ姿だった。


――おれっちゃあ、よう。誰にも許してもらおうなんて思わねぇ。

光に照らされる十字架を前にベンチ預けられた背中は、ほんの数分前に材木を軽々と振り回していたそれに比しては哀れなほど痩せ萎びて。

――てめぇにも、神様ってやつにもよ。

さほど広さもない聖堂の空気にとける呟きは、何度となく弟子に飛ばしていた檄に比しては悲しくなるほどに小さかった。

――おれっちゃあ、ただ。謝りてぇだけなんだよ。


告解。ゆるしの秘跡。父と子と聖霊の御名によりて。それこそは司祭に与えられた恵みの手段としての権能の一であり、「教会の神父さん」に求められる「仕事」に違いない。にも、関わらず。

「……難しいものですね。」

「あらあら随分としょぼくれちゃってまぁ!昨日の大言壮語がヘソで茶を沸かすよ。」

肩を落として呟く神父とは対照的に、ベンチの背にどっかと腰を下ろして脚を組む科学者はあくまで茶化す体である。

「その程度で凹んでりゃ世話ないね。あんた世界を救うんだろ?」

「まさか慰めて頂けるとは。恐縮です。」

意外にも皮肉で返す余裕があるとは。まさか天然ではあるまいな……。会話の間合いを訝しげに測る科学者に対して、神父は続ける。

「ウェーテルモナー氏のご指摘は、正鵠を射ているのでしょうね。わたくしには教区を預かる司祭としての経験がありませんから。」

神父の訥々として語りは、皮肉にも、先の大工の呟きよりもずっと告解めいていた。

「わたくしは畢竟、象牙の塔の住民なのです。」

これより語られるのは、彼らの始まり。

「レギコザインは聖ゴルテナ神学校。わたくしの生涯の大半は、そこで書物と向き合うことに費やされてきました。」

今も暗がりで冷たい刃を固く握り続ける少女との、それは出会いの物語。

***


足元に転がる黒の角帽。

次いで投げかけられるのは聞くに耐えない罵声。

リゾーマタ・エレメント聖下の慈愛に満ちたかんばせに戸惑いが影を落とす。庇うように立つ大司教アブノ・マールが怒号を響かせるも、燃え広がる混乱に薪をくべる結果に終わる。

教会の新時代を占う、若き神学者二人の教皇御前討論会は、考えうる限り最悪の結末をもって幕を閉じた。


「――君に相応しい環境を用意したよ。」

わたしは浅く閉じていた目を開く。視線の先には、かつて獣のように歯をむき出し、言葉を尽くしてわたしを罵っていた一人の男の顔。今わたしに向けられているそれに浮かぶのは聖人の相。頭には司教の帽子。

あれから何年経ったか。

「ゴルテナはもはや、君にとってはひどく窮屈だろう。君の天使のような頭脳にとって……あまりにも忍びないのだよ。のびのびと、静かに、何にも煩わされることのない環境が必要だ。今の君には。」

いずれにせよ、聖下を前に、直属の上司である四大司教の一角を前にしてあれだけの醜態を演じておいて、と思わざるを得ない。彼にとっては静謐な学問の湖面より、政治の荒波の方がよほど泳ぐに易かったと見える。当時彼の下についていた学者の中には、路頭に迷い、一家離散の憂き目に遭った者もいると聞く。

しかし、あの日別れた二人の明暗は今や反転していた。いつの間にか四大司教の派閥闘争の舞台となっていたゴルテナ神学校は、しがない一学者であり続けようとした自分にとって余りにも複雑すぎた。かつて学校が慎重に距離を置いていた筈の排外主義かつ保守的な「武闘派」が学内で最大派閥を築きあげている事と、目の前の元学者にして現マール派有力司教との関係性は明らかだ。もしかすれば、学校を挙げての自分への攻撃と排斥も。

わたしが彼の学者としての道を閉ざした。その結果がこれなら、甘んじて受け容れよう。

「立地は多少不便かもしれないが……できることならなんでもしよう。私と君の仲だからね。ゆっくりと、療養するといい。」

「御意に。モナベントラ司教猊下。」

そう返し、内心で別れを告げる。
さらば。かつて机を並べた学友よ。

***

雨の街路。暗がりに小柄な影。

物乞いだろうか。このあたりの治安も悪くなってきたという事だろう。悪名高い「孤児狩り」の車列を、教会上層部の人間も住まうこの一角ではまだ見かけることは無かった。

歩き過ぎる。既視感を横目で追うと、再び影。

どうやら、追われている。立ち止まると、影は細く薄暗い路地の奥へ。逃げるように。あるいは誘うように。


……象牙の塔の最奥で、どことも繋がらぬことばを弄び続けた自分には、その運命を拒む術など持ち合わせようもなかった。ただ不意に体を襲った衝撃を、深々と突き立った鈍い輝きを、呆然としてみとめる他に。


影を追って迷い込んだ薄暗がり。眼下にひかるみっつの輝き。睨めあげる眼光、そして刃。

「う」

干上がった喉から声を絞り出す。こわばった全身の筋肉が、呻きとともに自らのはたらきを思い出し始める。

「うぅぅぅ……!」

目の前の脅威から身をもぎ離す。驚くほど簡単に、影は数歩先の水たまりへと倒れ込む。後ずさり、尻餅をついたわたしに次いで濡れた石畳をごとりと叩いたのは、分厚い書籍と、それに半ばまで突き刺された片刃のナイフだった。

刺された。本が阻んだのは偶然に過ぎない。貫かれた紙束の厚みが殺意の程を雄弁に物語る。雨と冷や汗に濡れた胸が早鐘を打つ。身じろぎをする小柄な影。距離を取る事も、先んじてナイフに近寄る事も、ガタガタと震える四肢にはままならない。


荒い息遣いに混じる神を罵る呟き。自らに悲惨な運命を押し付けた何者かへ対する憎悪。それは影と自分、いったいどちらのものだったか。


永遠とも思えた対峙は、背を向け駆け出した影によって破られた。

「……待ちなさい!」

制止してどうするつもりだったのか。萎えた脚を叩きに叩いてやっとのことで立ち上がり、影に追いすがった自分が何を成そうとしていたのか、今思い返しても判然としない。次の角の先、意識を失って倒れ込む影を目にした際も当然、どうすれば良いのかわからなかった。

ただ、助けねば、と思った。何から?
……何もわからなかった。

***


「イーヒッヒッヒ!イィーヒッヒッヒッ!」 

大釜をかき混ぜる胡乱な老人。立ち上る暗色の煙。

「……ヒヒィーッ!!」

老怪人が謎の粉末を投げ入れて奇声を発すると、ぼんっ、という小爆発と共に大釜内の液体が発光。高位聖職者の装束が闇にあらわとなり、煙幕に巨大な影を作りだした。

「か……完成じゃあ!!」

「師匠、もっと普通には出来ないのですか。拝見したところ変哲のない栄養剤と風邪薬ですが。」

「人命がかかっておるのじゃろう!見よ、テンション上げたお陰で大成功の高品質じゃ!」

聖ゴルテナ神学校の一角である。現教皇が推し進める各ギルドとの融和方針に心穏やかならぬ保守派が増え続ける学内で、魔術に次いで反感の大きな錬金術を自ら学ぶばかりか堂々と実践して周囲を顧みない人物は、この老人一人をおいて他にない。

「感謝します、エアルベルト師匠。」

「おう急げ急げ。だいぶ消耗しておるぞ。長いことまともに食べておらぬ様子。」

隣室のベッドに横になるのは、小さく痩せこけた少女。その様は、雨の中の恐るべき脅威とはどうにも繋がらなかった。

「栄養失調と衰弱には回復魔法よりも実際に摂取するモノの類の方が効きが良いからの!薬学、栄養学に基づいた本格的な"薬"より、錬金術で癒しのネタの威を借りる方が話が早くてよい!こうした緊急時にはな!」

脈を探して針を入れる師の手際は鮮やかなものだ。神学・哲学のみならず自然科学全般に広く精通し、"普遍の知"、"偉大なる"エアルベルトと称される、ゴルテナが誇る大博士が彼である。

しかし、致命的に空気が読めない。

「どうじゃろうかのぉ。効くかのぉ。新しい配合を、試してみたんだがのぉ。」

「師匠、人命がかかっています。わくわくしないでください。」

「わしゃ真剣じゃ!人命救助にも人体実験にものぅ!ヒヒッヒ!体験・観察・真理!」

そしておおよそ倫理とは無縁だった。こんな男が当世一の神学者として世に知られ、一時は聖下の相談役まで務め今なお厚い信頼を置かれているというのだから世も末である。つくづく、選ぶ師を間違えた。

この師の下でさえなければ、ただ凡庸な信仰者で居られた。聖下の御前に引きずり出されることもなければ敵対派閥から出る杭として打たれることもなかった。
錬金術に手を出そうなどと、考えもしなかった。

「ま、いずれにせよ死ぬ事はなかろうて。まったくとんだ拾い物をしよる。」

師の視線は、泥にまみれた少女の荷物に向けられている。くたびれきった鞄、そしてナイフ。

「死にかけの、小さな"通り魔"とは!」

通り魔。その言葉をあえて選んだ師の意図は明らかだった。

「まだ、この子がそうと決まったわけでは」

「なるほど刃物を持った"つー族"であれば無力な者にだけ居丈高な孤児狩りの連中を翻弄する事いと容易し!どころか官憲・騎士団の追跡を振り切って、教会関係者十数名を立て続けに切りつけレギコザインを震撼せしむる事も可、ならざるは無しと言ったところか!」

大笑する師をたしなめる気にもなれない。人目を偲び、およそまともな学者も学生もまず近寄ることのない(生真面目な者曰く"悪魔的な")師の私室――アトリエに、一も二もなく彼女を運び込んだのには当然理由が……危惧があったからだ。

「医務室で事情を説明すれば、そのまま騎士団にお縄じゃろうからのぅ!孤児狩りも衛兵も威信がなんだ、教会に恩を売るだのなんだと鼻息荒くしとるようじゃが!」

「……事情が、あるのでしょう。」

「そりゃあ、ある!語られるべき御涙頂戴設定の一つや二つ!この性急な"運命"の奔流、視線を感じるとは思わんか?昨日まで"爪弾きの一学者"の一言で説明できたお主の人生が一昼夜にしてこうもドラマチックに!ゾックゾクするのう!」

恐ろしく《邪悪な》物言いだった。ざわつく"空気"を楽しむように言葉を操りながら、荷物の中身を検める。

「汚れてはおるが上等な衣服!もとはいいトコのお嬢ちゃんかの!ナイフは形見といったところ……そしてもしかすると、

……文字が読める。」


取り出したのは小さな紙片。ずぶ濡れの鞄の中にあって泥水に晒された様子もなく、大切にされていた様子が伺える。大切に?身なりと比してあまりにも非対称な保存状態の良好さはむしろ仄暗い執念の賜物だろう。数年前の新聞の切り抜き。「もしかすると」というのは、たとえ文字が読めなくともその執念を達する事は叶ったであろうから。

教皇御前神学討論会に臨む若き神学者二人、わたしとかつての学友が紙面に曖昧な笑みを浮かべている。友人の方はともかく、わたしの肖像などが巷間に出回った事は後にも先にもこの一度だけだ。瞬間を切り取られた紙上の二人はまだ将来を嘱望された前途ある若者であり、直後の転落など知る由もない。"転落"。多くの人生を巻き添えにした。

――当時彼の下についていた学者の中には、路頭に迷い、一家離散の憂き目に遭った者もいると聞く。

「……通り魔の被害者は、せいぜい衣服を浅く切られた程度。どころか、刃物で脅かされただけで大騒ぎしているのがほとんどじゃ。成る程、そうやって探し回り……"殺意"はただ一人に向けられていたというわけか。」

革の装丁を、数百ページの紙束を貫いた想いの深さ。わたしが彼女の"家族と過ごす幸せな日常"を閉ざした?その報い。甘んじて受け入れるべきだとでもいうのか。

「はじまったのぅ。なかなか周到な"運命"じゃて。取れる選択肢は少ない……今はまだ。」

体験、観察、真理。神の作りたもうた世界を解き明かすよろこび。その果ての果てに最悪の元素たる《N/A物質》を見出し、"神の実在"という残酷な真理を得た師の胸中を知る由はない。ただ己の身に照らすだけだ。同じく「知ってしまった」者として。

「しかし、お主は既に語られ始めた。"信仰心を持った錬金術師"として。創造と大勢への公開、認識と還元、設定の蓄積は既に始まっておる。我らは決して無力なばかりの舞台装置ではない。意志し、行動せよ。人格を世界へ刻め。空気に流されるな。道はその先にある。」

わたしには為すべきことがある。師から受け継いだ思想――"繋がり"を前へと進め、完成させる使命が。かの地獄の底に神を見出し、救われざる全ての運命を救うという大志が。しかし、では、いずれ来る"海"ではない、「今ここにある地獄」に苦しむ、この小さな命は一体誰が救うというのか。

「お主の信じる神は、その先にこそ。」

何一つ判然としないまま、運命に背中を押されるがまま。
……"今はまだ"という留保に、か細い希望を託しながら。

***

「で、どうするつもりなの?」

「……モナーベル教会に、相談をと。歴史ある教会を預かるクルト神父は、信頼の置ける方だと伺っています。モナーブルグの篤志家の事情にもお詳しいでしょう。……教会と、関わりのない孤児院などの情報も。」

うつむきがちに語る様は、分厚い眼鏡の視線を避けるようでもあった。

「彼女のために何が出来るか、考えるにつけ……まず、教会から距離を置くことが、肝要なのではないかと。その為にこそ、レギコザイン出発を早めたのです。癒しには、環境と時間が」

「一度、手を差し伸べておいて?」

言い訳じみた語りを断つ言葉の鋭さに顔を上げた神父の目は、困惑と無力感に沈んでいた。

「……もう、一月になりますか。彼女はまだ、一言も口を聞いてはくれないのですよ。」

***

……"火"の存在が明示された時点で勝算はある。光、熱、前進衝動。およそあの"海"の寒さ冷たさ――停滞と諦念に相応しからざる異物であるからして。環境の再構築には膨大な時間と労力が伴う。想定すべきは生活……生存であり、まずは"寒さ"に抗する事。脅威は物理的のみならず……


筆を置く。濁った思考は空転し、いたずらに時を浪費するばかり。ただ独りでの思索によって辿り着ける類の答えなど、ゴルテナ時代に搾り尽くしたということだろう。まだ執筆が残っている。日の出までには終わるまい。

独り。四面楚歌のゴルテナにあって、思想を共有できる相手は師・エアルベルトを於いて他になく、同時に彼は乗り越えるべき壁でもあった。日毎夜毎、幾千の言葉を紡いできた。誰とも繋がらない言葉を。……だから、誰かの為に言葉を選ぶことが、あんなにも難しいものなのだとは知らなかった。


――寒くはありませんか?

――お腹が空いてはいませんか?

――何か食べたいものは?こう見えて、料理には自信があるのです。


思いつく限りの……やさしい言葉。どれを投げかけても、返ってくるものは何もなかった。出会った際の焼け付くような憎悪すら、まるで何かの間違いだったかのように。目に見える拒絶の方がまだ救われた。結局、己の言葉は目の前のたった一人にすら届かない。言葉の力を以って世界に戦いを挑もうという男のそれが。

無力感と諦念。「それでも」という執念の薪として、常に自分の人生の傍に積み上げられ続けてきた凪いだ感情。……だから、顔を洗おうと井戸へ立ち、待ち構えるようにそこに佇む彼女を目にした時、胸を満たしたものは驚きではなく、「ああ、やはり」という諦めの溜息だった。

彼女の両手に握られたナイフ。驚くには値しない。大切なもののようだったので、私が彼女に返したものだ。その刃がこちらに向けられているのも、彼女と私の間に横たわる因縁を考えれば不思議に思うことは何も無い。単に答え合わせの時間が来ただけだった。やはり、私の言葉は届かなかったと。

「どうしましたか。こんな晩くに。」

命を、師から受け継いだものを、信仰を、ここで投げ出すつもりはなかった。目の前の少女に復讐の業を背負わせる意図も。ただどうしようもない諦めが、私の両膝を地に着かせていた。どことも繋がれない自分には、お仕着せの運命に抗う術は無い。

「風邪を、引きますよ。」

迎え入れるように両手を軽く広げ、口にするのはやさしい――やさしげなだけの言葉。どことも繋がれない、誰の心も揺らせない言葉に意味はない。たった一人の心すら救えない言葉など、わらくずのようなものだ。そんな言葉しか紡ぐことのできない、この生も。




「……あの、」

鈴の音のようなか細い声。それが少女の声だと気がつくのにしばらくかかった。邪魔する雨音も無く、濁らせる憎悪も感じない、初めて耳にする澄んだ声。突き出されている刃先に、こちらを害する意図は感じられない。

「あの、これ、」

「……ああ。」

私は得心し、刃物を受け取る。

彼女はどうやら、それを私に差し出していたのだ。不器用に。勇気を絞って。

「ごめんなさい。」

彼女の声は震えていた。

「これ……刺してごめんなさい。本、だめにしてごめんなさい。」

己が成した事に対する恐怖に。見放される不安に。

「ごめんなさい。だから、」

「ああ……。」

気が抜けて、溜息と共に力無い笑みがこぼれた。どう返すべきか。やはり、言葉を選ぶのは難しい。誰かの為に、言葉を選ぶのは。

「……刃物をね、人に差し出すときは、」

受け取った刃物の背を彼女に向ける。相応しからぬ内容だと思いながら。気の利いた器用な言葉など、自分には望むべくもない。

「こうしてね、渡せば、危なくないでしょう?」

「ごめんなさい、オレ、」

「いいんですよ。知らないことは、わたくしが教えます。」

彼女の肩は震えていた。独りに戻される悲しみに。その震えを抑えるように、小さな体を抱きしめる。

「独りは、いやですね。わたくしもそうです。もう、独りは。」

拙くとも、不器用でも。それでも届いていたのだと、胸の中で涙を流す少女は教えてくれた。それがどれほどの救いであったことか。

目の前の誰かの為に言葉を紡ぎ、繋がるよろこび。それが私と彼女の、この世界での"はじまり"だった。


***

「……ったく、肝冷やさせやがって。」

息をつき、丸眼鏡をかけ直す。あれだけ大風呂敷を広げておいて、昨日の今日で凶刃に倒れる幕引きなどまさかあるまいと思いつつ、ここで匙を投げる=面倒な設定をキャラごと殺してリセットかけるつもりなら乱入してめちゃくちゃにしてやろうと画策していたのだった。杞憂のようで何よりだ。

信仰心を持った錬金術師、神の存在証明。面倒なテーマ、面倒な設定だ。それだけに興味深くはある。肩透かしの結末など私の《左眼》が許しはしない。ともあれ、この調子ならしばらくの間は楽しめそうである。

「わたくしが教えます……か。」

家族、未来、夢を失った子供。どうやら私はそういうものにつくづく縁があるらしい。浮かんだ着想は、控えめにはしゃいだ泣き笑いに気を取られた隙に夜闇に消えた。

***

次話

#小説 #しぃのアトリエ #AA長編

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