あなたがわたしを忘れても:RE④

承前

「相も変わらずあなた方の神は、ひどく狭量なようですね……。」

呆れたように呟きながら、三人分のお茶を淹れてテーブルに着く神父。言葉とは裏腹に、その表情は楽しげだ。

議題は、『ファウストは救われるべきか否か』。この教会の保護下にある少女・ツィールトのふんまんやるかたない読書感想を、悪の科学者たるこの私、フー・ダシガラットが煽った形だ。

「聞いたか、ツィー?この神父……わたしらとヤる気よ。」

わたしの言葉にノリノリでニヤリと笑いを返す。チャーハンで胃袋を掴んだのが効いたのか、最近では命の恩人である神父よりわたしの方にべったりだ。神も仏もないストチル時代の経験も手伝って、主義主張もこちら側だった。

つまり、神様なんてクソ食らえ、だ。

「『時よ止まれ、お前は美しい』。せっかく契約の言葉を口にさせたのに、なに強引に救っちゃってんのあんなクソ野郎を。"機械仕掛けの神"なんて太古の昔から批判されてきた失敗脚本じゃん。悪魔との賭けに負けて神顔真っ赤かぁ〜?」

「確かに悪魔の力を得たファウストは、多少、奔放でしたが……」

「多少?あれが?惚れた女を不幸のドン底に叩き落として殺しておいて、それを綺麗さっぱり忘れて次の女のケツ追っかけるような男が?」

ツィーがごんごんと机を叩いて同意する。「お行儀」とたしなめられても聞きはしない。心底許せないと言った様子だ。

戯曲『ファウスト』とはまた"ませた"選書をと思うが、常日頃からわたしと神父の「神」だ「地獄」だのといった喧々諤々を耳にしている手前、そういった物語に興味が向くのは自然な事だったのかも知れない。彼女の素朴な疑問や一言が、白熱した議論のタネになる事は案外多い。

わたしは神父の"神の存在証明"――我々がいずれ堕ちる地獄《DATの海》に救いをもたらす――という目標を、完膚無きまでに否定してやる為にここにいる。議論の様子はそれは剣呑、かつ専門知識が無ければ到底理解の及ばない内容であるはずだが、彼女はどうも楽しんでそれを聞いている。仲良くケンカしているようにでも見えているのかもしれない。心外だ。

自分のスタンスを鮮明にした少女は、一転やかましく騒ぐのをやめ、わたしと神父の両方の顔をワクワクした様子で眺め、すっかり聞き入る姿勢だ。ギャラリーを前にするのはやぶさかではない。待ってろ、今に「わたしは物分かりが良いです」みたいな顔した自分を持たない無批判主義者をコテンパンにしてやる。

「論点を整理しましょうか。ファウストは救われるべきではない。何故なら彼は契約の言葉を口にしたからであり、えー……『クソ野郎』であるから、ですね。」

「因果応報、勧善懲悪、エンタメの王道よ。女の敵のクソ野郎には五体四散の爆発オチがお似合いだ。」

「女の敵……つまり、愛するグレートヒェンを自らの所業により失った悲しみを、彼は"忘却"する事で癒します。では質問ですが、果たして、"忘れること"は罪でしょうか。」

「罪に決まってんだろ!加害者が被害者の事を一方的に忘れて罪悪感から逃れようなんて。」

「ファウストは悲劇の記憶と罪の意識のみならず、彼女を愛した気持ちすら忘れ去ったのですよ。」

神父は立ち上がり、そばにある本棚へ。

「もし、忘却が罪であるのなら。わたくしには、それに値する罰でもあると思えるのです。」

手に取った本のタイトルは、『僕らは二度死ぬ三度死ぬ』。《忘身刑》――忘却という罰を扱った内容は多くの者の胸を打ち、小説、絵画、演劇と、さまざまな媒体で表現される名作だ。しかし錬金術ギルドに於いては「あまりにも非人道的」であるとされ、その圧倒的な物語の強度にも関わらず、再現や力の取り出しの公的な記録は残されていない。

「作中、あれほど恋い焦がれた女性の名を、彼は二度と口にすることはありませんでした。」

表紙に俯く彼の目は穏やかなものだ。わたしがどれだけ煽ろうと、どれだけ議論が熱を帯びようと、その穏やかさを波立たせる事はかなわない。

***

がりがりがりがり。

がりがり。

その形相の凄まじきは悪鬼か修羅か。机にしがみつく様には天に挑む勇ましさなど欠片もなく、むしろ足元に迫る地獄に慄き蜘蛛糸に縋る罪人を思わせた。縋るように呪うように、紙面に文字を刻み続ける。

***

「いいか?錬金術の初歩の初歩、アプレンティスでも知ってる法則を教えてやる。《等価交換》だ。」

眼鏡を外し、赤と青の瞳で睨みつける。

「あの《海》に堕ちるという事は、世界から"無価値"とみなされたという事。『素材に溢れた豊饒の海』?抜かせ、あそこに利用できる価値なんてあると思うな。」

対する神父は思案顔で、重々しく口を開く。

「……価値の劣化。物質の最小構成単位"Unicode灰燼"から意味と価値を取り出す事は、確かに不可能でしょう。しかし、……残酷な話ではありますが、あの《海》には絶えず新しい物語が供給され続けています。」

「堕ちた時点で手遅れだって言ってる。」

バッサリと切り捨てる。甘い夢など見させはしない。

「火と大鍋一つで価値の乗算が叶うこっちのようにはいかないんだよ。ゼロに何を掛けてもゼロ!あのゴミ溜めから1以上の価値が残ってるゴミを探し出して利用する労力……」

「……なるほどのぅ〜、"価値"力学に於けるエントロピー増大則!」

いつも通り二人の議論を子守唄にうたた寝していたツィーが、飛び上がって威嚇する。不意に割り込んだ声にぎょっとしたわたしが振り向くと、そこに立っていたのは随分と偉そうな服を着た爺さんだった。

「意味と価値が絶えず陽の光のように降り注ぎ続ける地上と比して、閉鎖系である《海》の『寒さ=無価値さ』に物質の有する価値が希釈されて行く環境では、恒常性を維持するのにもコストが掛かる!行き着く先は『宇宙の価値的死』!ヒヒィーッ!」

「えっ……誰」

「エアルベルト師匠!」

神父のやつも呆気にとられてはいたが、不審者の侵入事案に対する驚異とはまた別のようだ。

「おう、不肖の弟子よ。達者にしとったか。」

「いらっしゃるならいらっしゃると……ああ、ダシガラットさんとんだ失礼を。こちらはわたくしの師にあたる聖ゴルテナ神学校の引退学者、エアルベルトと申しまして」

「お主がすっかり例の司教に睨まれたおかげで、ワシまでゴルテナから追い出されたぞい。この歳でカオモジベルクの一教区なんぞ任されたくは無いというに!」

「師匠まずは落ち着いて紹介を……って、え?モナベントラが?あなたを?」

「とりあえず茶でも出さんか。喉が渇いたわ。」

「そもそもレギコザインからどうやってここに」

「徒歩に決まっとろうが。わしゃ健脚じゃ!」

ヒィーヒッヒッと笑う老怪人の勢いに、わたしは状況の把握を諦めた。ツィーはどこかへ避難したらしい。その賢明さに倣うべきだろうか。

「しかしスミにおけんのぅ!こんなべっぴんさんとのぅ!」

「すみませんねダシガラットさん。すみません。」

追加のお茶を手に神父が戻ってくる。黙って口を湿らす。もう暫くこの師弟漫談に付き合ってみるとしよう。

「あれだけケッペキ気取りおったクセに!こやつ、出家の時にはそれはもう家族に大反対されての。部屋に娼婦を送り込まれたが、その時は火かき棒を自分に押し当て、仰天させて追い返したらしいぞい!『悪魔よ去れ』とな!せっかくお仕事で来たレディに失礼な!」

「師匠」

「どうせおなごの前でええかっこしとるんじゃろむっつりスケベが。『人畜無害で温厚です』みたいな顔しとるがの、こやつ、わしが苦労して作ったリビングアイテムを一つ残らず叩き壊した事があるんじゃ!生命への冒涜じゃぞ!」

「気軽にポンポン生命作る方がよっぽど冒涜でしょうが!ガシャコンガシャコンやかましすぎて研究妨害もいいところでした!」

「ありゃ去年か一昨年か?『わたくしの作品なんて藁クズ同然ですもう全部燃やします』なんて突然言い出してのう、ありゃわしが止めなんだらどうなってた事か……」


「……えー、ともかく、あることないことやめてください。ご用件はなんです?」

妙な間があった。老人はあご髭を弄り思案顔だ。

「ふーむ。別に用というほどの用は無い。様子を見にのぅ。カオモジベルクに向かう道すがら立ち寄ったまでじゃが、」

「東西まるきり逆なんですが?」

「強いて言うなら、忘れ物を届けに、かの。」

どこからともなく取り出したのは分厚い本。普段、神父の奴が肌身離さず持っているものとよく似ている。一番大きな違いは、表紙を貫き、本の半ばまで達していると思われる大穴が空いている事だ。

「多少泥水に濡れてはいるが、読めるページもいくらか残っとる。何も捨てていくこともあるまいに。」

淡々と受け取る神父の顔から、読み取れるものは何も無い。穴開きの本を懐に仕舞い、いつもの本を掲げてみせる。

「すでにこの通り新調は済んでおります。それに、あの子が見たらきっと気に病みます。」

「思い出に替えはきかん。」

革の装丁にタイトルは無い。厚みと大切そうな様子から聖書か何かだと勝手に思っていたが、違うのだろうか。

「ともあれ、我が弟子よ。良い繋がりに恵まれておるようだの。」

視線をわたしに向けてにこやかに言う。

「繋がりの中で世界へ刻め。それが失われることはない。」

呼び止める声も聞かずに退室する。後を追う神父にわたしも続いてみたが、不思議なことに、去って行く老人の後ろ姿を見る事はかなわなかった。

***

ばらばらばらばら。

ばらばらばら。

頁を捲る。めくる。焦燥に見開かれた目は遠ざかる何かを必死に追いかけているかのようで、迫り来る何かから逃れる方途を求めているかのようでもある。小刻みに震える瞳が何らかの記述を捉え、絶望が瞼を閉じさせる。

***

「この間は、珍しいもん見せてもらったわ。声を荒げるアイツなんて初めて見た。」

「あんなもんでよければおやすいごようじゃて、ミス・ダシガラット。」

「それはそれとして、これは反則じゃないの?」

「なんの、わしゃ健脚での。」

ワロスウッドの森、深部。凶悪な魔物と天然の致死性トラップが蔓延る高難易度ダンジョン――わたしのアジトに、この老人はふらりと現れた。

「モナーブルグを立つ前に、改めて挨拶しようと思うてのう。不肖の弟子がずいぶん世話になっとる。」

出方を慎重に伺う必要があった。ミームを次世代へ申し送る事に成功した"師匠"という立場の強みは、この世界では特別だ。空気に忌避される"壁越え"も思うがまま。現役世代との繋がりが高い実力を当然のものとして肯定する。わたしのまがいの《意志》程度なら、容易く曲げられる恐れがあった。

「お主らのやり取りを聞いて、この老いぼれにも飲み込めたわい。あの《海》を救う、唯一の方法。」

攻撃や糾弾の意思は感じられない。ほとほとくたびれた様子で、長い溜息をつく。

「察しの悪いわしの弟子でも、そろそろ気づくじゃろ。お主の言わんとしていることに。……当然、あやつには無理じゃ。それができる男ではない。」

うつむいて、首を振りふり呟く様子は、あの日教会に現れた老怪人とはまるで別人だ。

「聞かせてはくれんか。なぜ、あやつを答えへと導いた?」

「……既に持っている解答に、他人が挑むのを見るのは新鮮な体験だった。」

言葉を選ぶ必要は無いと判断した。この打ちひしがれた老人は、言葉通り、確認と挨拶に訪れただけだ。

「もしかしたら、何か新しい知見が得られるかもしれないと思っただけ。最初から実行を誰かに譲る気はなかった。これはわたしのネタだから。」

老人は黙って聞いている。取り繕いやごまかしは無意味だろう。

「……気づけば、いい加減諦めもつくでしょ?そもそも柄じゃないんだ、アイツには。毒にも薬にもならない日常ネタが似合ってる。それを続けてもらった方が、わたしにも都合がいい。」

「自分には似合いだとでも言いたげだの。大量虐殺が。」

あんまりな物言いに、わたしは思わず吹き出した。虐殺!そうとも言えよう。

あの《海》を素材に見立て、錬金術によって再構築する。その発想は間違っていない。しかし、ネックとなるのは利用可能な価値の絶望的な少なさと、掛かるコストの膨大さだ。

ようは人的資源が要る。

「当然。だってわたしは"悪の科学者"。協力者の人選だってもう見繕ってる。選ばれし者の壁を越えた退廃の錬金術師、世界の裏面に通じる悪魔研究者!……アイツの席は無い。」

各分野、多方面のエキスパート。それも、錬金術に理解を持った。
そうした優秀な人材を同時期に、大量に、地獄と定義された不毛の大地へ送り込み、植民と開拓……否、生存を強いる。大半が心折れ、希望を失いその身を灰と化した後、《海》の救済は成るだろう。

「アイツには……あの善人には。身の丈に合っちゃいない。全くダメだ。けど取り柄はある。この世界で一番に求められる資質だ。日常を生きる資質。」

「《見えざる手》に抗する、日常との繋がり。あやつもそのよすがとなりうるか。師としては鼻が高い話よ。」

「せっかく上手いこと繋がったんだ。あれこれ世話も焼いてさ。……わたしはもう、誰にもわたしのネタをスルーさせたく無いだけ。」

「あやつは止(や)めんよ。」

確信に満ちた呟きに会話が途切れる。老人は静かに繰り返す。

「あやつは、止めん。あの……凡人を。真面目なだけが取り柄の一信仰者を、世界へ挑ませるにあたり、当然、それを必然と成さしめるだけの事情がある。語られるべき、お涙頂戴の事情が。」

脳裏に浮かぶのは夜。夜毎の地獄。

「あやつは止められん。そのように創られておる。"信仰心を持った錬金術師"という業を、わしが申し送ってしまったが故に……できることは何もない。」

師という立場。当然のものとして認められる高い実力はしかし、世界や流れに及ぼしうる影響の大きさとトレードオフの関係にある。彼らが主人公として物語を牽引することはない。出来るのは助言、手助け。現役世代を活躍させるための舞台装置。

「あやつは続ける。お主の答えには納得せんじゃろう。そこにはあやつの信じる神はおらん。あやつは証明を続ける。さいごまで。」

総てを救う機械仕掛けの神。犠牲の上に成り立つ救済では、確かに彼の証明は成らない。つまり永遠に成る事がない。目の前の老人の嘆きは、それを知っての事だろう。

もしかしたら、彼のあの地獄も?

「どうか、見届けてやってはくださらぬか。」

静寂が戻った森で独り、老人の言葉を反芻する。必然に取り囲まれた悲劇。ただ見届ける事しか出来ないのなら、この出会いと繋がりに一体何の意味があるというのか。

***

がりがりがりがりがりがり。

がりがりがりがり。

書き、綴り、刻み込む。読み検めて反芻する。こころみの虚しさを自覚しながら。かくあるべしと定めた何者かを憎みながら。おわりの時が近づいている。

***

「いい式でした。」

人の気配がようやく絶えた聖堂は、常よりも広く寂しく思えた。ベンチの一つに腰かけた神父が背中で呟く。気づかれるつもりは無かったのだが。

「よかったじゃない。」

「ええ、とても。」

知り合いでもない他人の式に、心を動かされる道理はない。参列するのも筋違いなので、床下で時間を潰していた。今も床下から会話をしている。余韻の残る聖堂の空気を、吸うことが何となく躊躇われたから。

この場に居るべきだったひとは、この世界のどこにもいない。今はまだ。

「見てました?あのツィーが。いつも来客に隠れるあの子が、あんな大勢の参列者の前で、花嫁からブーケを貰って喜んで。意味はわかっていないでしょうが。」

わたしはそれを見ていた。花嫁が探していたのは別の人物だった筈だ。それでも、人混みの中から小さなあの子を探し当てて選び出す、眼差しの優しさは彼女らしいと思えた。

幸せになるべきひと。報われるべき善人。

「……わたくしの生は、誰とも繋がることがないと思っていました。象牙の塔の最奥。どこに届くことのない言葉達。派閥、政争。真理の自覚、証明の日々。それが。」

世界の命運などに煩わされるべきではない、日常の中で輝くべき存在。

「それが、こんなにも多くの人々の輪の中で。かけがえのない、新しいつながりを結ぶ場に立ち会えて。」

それは、この男も同じであるように思われた。

「こんな幸せが、ほかにあるものでしょうか。」

答えず、地の底へ。眩しさから逃れるように。自らの陰が、彼らを汚してしまわぬように。

***

白紙の項。

机上の手には力なく、取り落とされた筆に伸びることはない。

ぽたぽたと雫が落ちる。雨が夜の静寂を優しく葬ってゆく。

***

「もういっぺん、話してみたら?」

「何度話そうと、同じです。わたくしは認めはしません。」

「そうじゃなくて……」

常の議論であるのなら、こんな歯切れの悪さを見せる事は無かっただろう。そもそもわたしが首を突っ込むべき問題ではない。

しかし黙っている訳にはいかなかった。

「……なぜ、アンタが認めないのか。ちゃんとあの子が理解してるかって話だ。今みたいに山ほど宿題出していじめたところで、意固地になるだけだ。なにせ、アンタと、わたしの背中見て育ったんだから。」

「十分、話したつもりです。あの子に信仰心など欠片もない。錬金術に惹かれたあの子に。この道に進んだところで、苦しむだけだと。そもそも信仰に拠らない熱量でゴルテナの狭き門を通れる道理はなく、それを自覚させるためにわたくしは」

「アイツはやるぞ。……火に油だ、アンタがやってる事は。」

神父さんみたいな神父さんになりたい。たわいのない子供の夢想だと一笑に付せれば良かった。

「わたくしは、認めません。しかし、選ぶのは彼女だ。」

「"選ぶ"……」

果たして我々はあの子に選択肢を与えられていただろうか。静かで心地よい壁の中に、臆病なあの子を閉じ込めてしまってはいなかったか。

教会の神父さんと悪の科学者。彼女にとっては、選ぶべき選択肢が二つしか無かったとしたら。

「選ぶのは、彼女だ、だって?そいつは……違うんじゃないか?」

確信の無さに濁った言葉が、感情に押し出されていく。

「子供が……帆に風受けて自力でやっていけるようになるまでは、大人が責任持って導いてやるべきだろ。何のために長く生きてる。せめて自分と同じ穴にハマらないよう、踏み台になってやるべきじゃないのか」

言葉は糾弾に。自分でも訳の分からぬ熱に突き動かされ、胸ぐらを掴んでまくし立てる。

「幸せになれっこない。絶対に。そんな道に、あの子が落ちていくのを……黙って見過ごす気か、お前――」

「わたくしは、」

怒りの熱から冷めていく頭が、周囲の明るさに違和感を訴える。夜がやってきたように思えたからだ。目の前の男の表情に。

「わ、わたくしは、誰とも繋がれぬと。」

明るい時分に、男が決して見せる事のない顔だった。

「覚悟していたつもりでした。でも、あの子がわたくしを――"繋げて"くれると。繋げたいのだと言ってくれた時、わたくしは……嬉しいと思ってしまった。」

溢れる雫に慄いて手を離す。くずおれるように膝をつく男を、わたしは呆然として見下ろすしかなかった。

「許されるべきではない。選ぶのは彼女だなどと、詭弁を弄するのは。それでも、わたくしは……」

窓の外で、ゆっくりと日が陰ってゆく。俯く男の顔は、すぐに誰のものかわからなくなった。

***

静かにめくられる頁を見下ろす目は安らかで、口元には微かな笑みが浮かぶ。やがて本が、目が、ランプが閉じられ、柔らかい闇が満ちる。

***

町外れの郵便ポストに手紙を投函しているのが"教会の神父さん"だと気付いたのは、何度か教会へ足を運んだ事もある街の住民だった。懐かしの"出張説法"も見かけなくなって久しい。挨拶すると、相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべて会釈を返しながら、そそくさと壁の外へ去っていく。

どこか急いでいるような様子、あるいは人目を避けるかのように。

それきり"教会の神父さん"を見た者はおらず、打ち捨てられた森の奥の教会は付近の子供達の肝試しにうってつけの廃墟へと戻った。神父さんのことも教会のことも、次第に忘れ去られていった。日々の生活と廻り続ける日常を前に、立ち止まった過去の残滓は容赦なく流れ去る。

誰一人、思い起こすことはなかった。数年後、年若く、どこか先代と似た雰囲気の、幾分頼りなさげな新しい神父さんがやってくるまでは。

***

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