最終話:この世の限り

承前

醸造酒《希望(ホッフェン)》の作成に際して、最大の課題はその原材料となる作物の安定供給――栽培に適した農地の確保だった。

Unicode灰塵質の土壌は塩基と保肥力に富むものの表層は保水力が小さく、下層土は透水性不良の為に、農地として利用する為には深耕、心土破砕により土壌の物理性を改善するしかない。つまり、膨大な労力をもって"耕す"以外に方法はなく、それは人員も道具も不足していた我々にとってあまりにも過酷な道行きを予想させた。

しかし、その懸念はあっけなく解消されることとなる。探索の結果、農地に適した土地が大量に見つかったのだ。

それは明らかに人為的な土壌改良の結果を示すものだった。我々以前にこの《海》に堕とされ、同様の試みを為そうとしていた先人達があった事の紛れもない証左だ。

当初の想定よりはるかに早い《希望(ホッフェン)》の生産と改良こそ、我々のうちに一人の脱落者も出さずにディグザール開拓を為し得た原動力であった事を思えば、犠牲となった先人の行いの尊さに思いを致さずには居れない。"聖ディグザール教会"で祈りの対象となっているのはこうした名もない方々でもあり――

(『ディグザール開拓記』より、エラルド・ツールス述懐の抜粋)

***

「またあなたも無茶なことするもんですよ本当に。」

「なんも教えてくれない神父さんが悪いんだもん。わたし悪くないもん。」

「泣かない泣かない。わたしが悪かったですから。」

「あんなかなしい思い出しかも忘れちゃっててひどいしでもわたし余計なことしたかもとかいろいろ考えちゃってでもだってどうしても」

「うんうん、ありがとうございました本当に。」

「……アンタら、イチャつくンなら上でやんな。」

ベソをかく少女・ルーシィとそれを慰める神父。横目で睨みつけつつ悪態をつくボロボロの科学者。

「ったくなんなんだよ一体。いきなり出てきて横からめちゃくちゃにしやがって……ぃぃたたたっ、おい、ツィー!"コレ"、なんとかしろ!」

科学者の頭に文字通り「かじり付いている」のは、神父によく似た小さな子供……というより子供時代のツィールト少女、そのものだった。丸メガネの上のクセのある長毛をめちゃくちゃに引っ張る様子は憤懣やるかたないと言ったところ。

「コレとは失礼な……無理もないですよ。分裂するまで気に病んだことの原因がそもそもあなたによるものだったんですから。」

一方大人の方はまだ涙目のルーシィと和気あいあい。まさか自分で無理やり忘れさせたなんてねーひどいよねー。

「あの、ええと、そろそろ突っ込んでいいですかね何なんですか分裂って」

神に飛び蹴りって!と、魔術師ウラエスター・モラウリーがたまりかねたように呻くも、だるだるにたるみ切った場の空気にタガをはめることはできそうにない。

「ほら、よくあるでしょう黒歴史とか、認めたくない自分の一面とか。そういうアレです。なにせこの世界は柔らかいですから。」

世界は柔らかい。時の流れすらねじまげて、必要によっては"誰かの代わり"を無理やりに生み出し、枝分かれする可能性を無数の《鏡》でたてわけて、そのすべてを肯定するほどに。

「どうしても大人になりたくない"オレ"と大人の"わたし"。同時に存在する事くらい、なんてことない話でしょう。」

パラレルという前提においてならば、相容れないお互いの存在を認めることもできる。《鏡》は否定の壁であり、また寛容の窓でもあるのだ。

「いやさっっっぱりわからんゴト!これだから錬金術師は!」

ウラの練りに練ったイケメン魔術師ムーヴが台無しゴトーと、ついに方言が出始めた魔術師にはもはや構わず、神父は科学者に向き直る。

「ダシガラさん、その子のこと、よろしくお願いしますね。どうも、まだまだ"わたし"を許せないみたいですから。」

「アンタちょっと自由すぎない?」

「もっと自由になるべきでしたね。物わかりが良すぎました。」

空気を読んで忖度し、分別をつけて道理を弁える。誰もが子供のままでは居られない。いつかはエゴのナイフを収めることを覚えるけれど……

「あなたは罪を犯し、報いを受けた。救われるくらいなら奪い取ってくれようという悪役の矜恃に免じようかとも思いましたが。この世界、捨てる神あれば……」

ふと、ピーガリガリと電子音。見れば、神父と魔術師を乗せてきたリフトから騒がしい男の声が放たれだす。

『……おい!なんだこの時化ようは!どこの荒らしの仕業だこりゃあ!……エイトの奴連れてきたってのに、これじゃ降りるどころの話じゃねぇや!聞いてっかオイ三冠王!マーラ様が来てやったぞ!こうなりゃそっちが上がってきやがれ!』

「……拾うヒトあり、と言ったところですか。ウラエスターさんのおっしゃる通り、わたしたちが縁を結んだのは他ならぬあなたなんですよ。あなた一人を《海》の底に沈めて、めでたしめでたしという訳には、多くのヒトが行かない様子。」

……誰のものでも無いこの世界(シェアワールド)の中で、人と物語を動かすのは「こうなって欲しい」「かくあるべき」という誰かの意思、つまりはわがままの押し付けに違いない。エゴとエゴ、ネタとネタとのぶつかり合いが、いつだってこの世界に熱と光を与えてきたのだ。

不満げな科学者の顔が、観念したように綻ぶ。

「……わかったわかった。鼻血垂らした神のあほづらなんて、愉快なモンも見させてもらったし。」

ルーシィのピースサイン。ここらで手を打っておかなければ、次はさらに強引でとんでもない手段を取られかねない。

「大人しく救われてやるさね。」

言いながら、物言わぬボルトゴッチを見やる。貼り付けたような鉄面皮は、まるでその役目を終えたかのように満足げに映らなくもない。

『……つーか、マジで荒れすぎててヤバいんだが。リフト引き上げるどころじゃねーぞ。どうやって帰るつもりだあんたら。』

頭上からもたらされた情報によると、既に船首で一人カッコつけていた錬金術師が大波にさらわれて行方不明になっているという。痛ましい人的被害だ。顔を見合わせる一同。

「えっ……リフト使えない?マジでどーすんだゴト?」

「泳いで行くしかないだろうよ。ほれとっとと帰れ。」

「大荒れって話ですからねぇ。」

「わたしスーツがおしゃかなのでもう戦えませんけど……」

その代わり、とルーシィが取り出したのは、小ぶりの包丁だった。

「神父さん、お任せします。」

「ああ……」

刃を手前に差し出された包丁を両手で受け取る。《菊二文字》。"つー"という種族ーーAAに積み重ねられてきた強さの象徴。界を、時を超え、複数の視座によって語り継がれてきた価値の結実。

「……声が聞こえる……」

その木霊は高らかに、繋がることの出来たよろこびをうたう。この世界にて積み上げられた、新たな物語のささやきと共に。

「あの人の声が。だから――」

あなたは独りではない。確かに繋がっている。豊かな世界のあめつちと。不可視のバックボーンと。そして――

「――だから、強く在れる。」

不意にのぞいた晴れ間のように、頭上高くから光が差し込む。振り抜かれた切っ先が、垂れ込める黒雲を、わだかまる影の群れを、桜色の嵐と荒れ狂う波を一直線に貫いてはるか地上へと輝ける道を切り開く。

けたたましい哄笑の後を、「うおおエーちゃんウラは生きて帰るゴト」とホウキサーフィンの魔術師が続く。普段着の街娘はトンと地面を蹴って、立ち泳ぎで後を追いながら、水底の二人と一台に向かって手を振る。「またね」と。

ひらひらと手を振る子どもと、それを横目に呆れ顔の科学者。喧騒は徐々に遠のき、あるべき静けさが戻ってくる。以前と違うのは、苛むような暗さと寒さが嘘のように消えている事だった。

「まさか、アンタがここまでおこちゃまだとはね。『わたしはもう、子供じゃありませんから』なんて、いつかのアンタの言葉を鵜呑みにしたのが間違いだった。」

当の子供は涼しい顔だ。わがままな子供であるのを恥じることなどありはしない。お陰で得られる大団円もあると言うもの。

「さて、座って寝てるだけのはずが、随分暇になっちまったけど……せっかくだから、試してみるのも悪く無いか。」

言いながら、白衣の中から取り出したのは、十字架をあしらったアクセサリー。それは、いつかの夏祭りの夜、科学者が千本釣りで引き当てた景品だった。

「これ、よく出来てる。作ったやつの執念というか、根性というか……そんなもんが染み付いててさ。込められているネタも上等。くじの景品としては、原価割れもいいとこだけど。……アイツの事を、思い出す。」

屈んで手渡す。赤と青の瞳は、今や怒りにも嘆きにも揺れてはいない。

「これを持っていれば、きっと会える。……先に行って、寝ぼけ頭を覚ましてやってくれない?」


小さな後ろ姿を見送る。縛る物の無くなった、柔らかい《海》の底。距離などあってないようなもの。望めばいつだってまた会える。

そう遠く無い世界の終わりを、ただ座して待つのも芸がない。抗う罰がもう無いのなら、せめて退屈に抗したいところだが……

粉々に砕かれた《鏡》の破片を手に取る。

「《パラレル鏡》、ね……」

かざした鏡面に映り込む灰の荒野。何も無いはずの虚空に、まるで劇場の入り口を模したかのような扉が浮かんでいる。看板には、"メタフィクションの劇場"の文字。

***

「なるほどね。」

「なるほどなんですよ。」

今日も今日とて閑古鳥鳴く日中のBAR.タカラギコ。奥まったテーブルに腰掛けるのは珍しい二人組。どこかよく似たくせ毛の長毛を寄せ合って、わかりやすい密談の最中だ。

「お紅茶一杯ぶんのお値打ち、ありました?」

「そりゃ値千金の情報だけどさ……」

メガネの長毛――フーズマリーよりも、今はダシガラの方が通りがいいのでそう名乗っている科学者は、煮え切らない様子で泥のように濃いコーヒーをかき混ぜる。

「なんか、こう、あっさり答え出されちまうとね。不完全燃焼というか。」

「も、勿体ぶった方がよかったですか」

「……アンタにそーいうの求めるのは酷みたいね。」

頭を掻きかき立ち上がる。口調とは裏腹に、その顔は晴れやかなものだ。

「まぁいいさ。今回は蚊帳の外だったみたいだけど、次はやる時はアタシも混ぜろって伝えときな。もっと盛り上げてやるからさ。」

「さっすがダシガラさん――」

言い切るか否か、少女ルーシィの背後の物陰から、異形の人影がまろび出る。昆虫を模したマスク、頭頂部も眩い怪人、吸血鬼然とした美女――

「――お話がはやーい!」


その期のダシガライダーショーは、かつて無い規模の新展開を繰り広げた。

真の黒幕・悪の科学者ダシガラット。新たなるヒロイン・メイドピンク。BAR.タカラギコ全面協力のもと、金の匂いを嗅ぎつけたアトリエCの出資を皮切りに町役場ぐるみの一大イベントへと規模を拡大することとなり――

――その興行の成否はまた、別の機会に。

***

ほの暗いあかねの水底をまっすぐに歩く。自分が何者であり、何を目指しているのか、一歩いっぽ、踏みしめるように確かめながら。いつかは全てを忘れてしまうとしても、少しでも長く覚えていたいという気持ちは、間違いではないと思うから。

一番大切な繋がりを忘れてしまった自分には、もう誰とも繋がる資格がないと思った。そんな自分とさえ繋がりたいと、わがままを通してくれたあの子のおかげで、いま、再び繋がりを求めて歩いている。

硬い石だらけの荒れ野は、考え事にはあまり向かない。常より短い足と低い視点。何度もつまづきながら、気づけば意識は足元ではなく自分の心の内に向かっている。

この世界は柔らかいから、きっとオレはあの人に会うことができる。考えるのは、まず最初になんて言葉をかけようかということ。言いたい事は星の数ほどあるけれど、最初の一言はとても大事だ。それに準備をしておかないと、何も言えなくなってしまうかもしれない。

もうどのくらい歩いただろう。胸にかけた十字架を握りしめる。ふと、再会を恐れている自分に気がつく。あまりにも長い時間、この《海》の底に居たのだ。あの人はもう、自分の知っているあの人ではなくなっているに違いない。まだ、言葉を交わす事は可能だろうか。思いの丈を、受け止めてもらう事は。

それでも、と思う。一からだって構わない。途切れたのなら結び直して、何度でも繋がってみせる。あのわがままな彼女のように。子供のオレなら、どこまでも奔放に振る舞えるはずだから。

決意に勇む足取りを、柔らかい土が受け入れる。いつのまにか、つまづくことがなくなっていた。灰と石の硬い地面は見る影もなく、深く掘り返され、丁寧に小石を取り除かれて――

駆ける。短い足がもどかしい。ふわふわとした土は地面を蹴る足をやさしく受け止めるばかりで、思ったように速度が出ない。息を切らす。低い視線をさえぎる小高い丘の向こう。ざく、ざくという小気味のいい音。乗り越えて広がる視野。一面の……

***

やぁ、これは、はじめまして!

……もしかして、お急ぎですか?そうでなければ、少しお話などいかがでしょう。こうして誰かとお会いするのは、きっと久しぶりなのです。でなければ、これほど胸が高鳴ることもありますまい。

きっと、というのはね。わたくしはどうも、長くは覚えておられぬようなのです。朝起きて目覚めると、大抵のことを忘れてしまう。

寒くはありませんか?寂しくは。……わたくしは平気です。何故だか今は、寒さを感じない。あなたがいらっしゃるからでしょうか。それに、わたくしはすぐに忘れてしまいますから。寒さも寂しさも、一眠りすればきれいさっぱり。

朝、目覚めるとね。自分が鍬を持っている事に気が付きます。そして、目に映るのはこの光景です。

……ね。昨日までの自分が、これほどの事を為したのだと。わたくし自身が忘れても、この大地が、世界が覚えていてくれる。ここは少し寂しいけれど、とても優しい場所ですね。

なにせ、わたくしがわたくしでいることを、こうして許し続けてくれているのですから。もはや自分が何者か、名前の一つも思い出せないというのに。――或いはどこかでわたくしの在り方、姿形だけでも、繋いでくださっている方が、いらっしゃるのかもしれませんが。

心苦しくはあります。その方のことも忘れてしまっているのかもしれないと思うと。もしかしたら、あなたともどこかでお会いしたことがあったかも知れませんが。

……わたくしごとばかり、恐縮です。よろしければ、あなたのことを聞かせてもらえませんか?

***

たそがれに滲む視界いっぱいに広がる、柔らかく耕された黒い土。かわたれの薄明かりでも、頼りない細身の人影を見間違えるはずはない。

心配した通り、言葉なんて出てきやしない。胸いっぱいに想いがつかえて、両目からポロポロとこぼれ出す。

用意して整えた言葉なんて無力なものだ。思えば、この世界ではずっとそうだった気がする。まさかこんな事になるなんて。その連続が、自分をここまで運んできたんだ。

だから目の前の出会いとつながりに、ふさわしい言葉を一から探そう。もうはじまることもおわることもない、全てが語り尽くされたこの世界の果てで。一番ふさわしい言葉を。

「はじめまして、あなたに会えてよかった。」

何度でも語りなおそう。ただこの心が震えるままに。

「ご一緒しても、いいですか?」

(完)


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