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自由意志は、弱い意志から生まれるーーあるいはプーチンであるとはどのようなことか

この文章では、「自由意志は、弱い意志から発生する」というアイデアを紹介して、なぜそのように考えたのか説明しています。普通、自由意志っていうのは自分で「こうしたい」と選び取るものだ、というイメージを持たれていると思います。だからこそ、自由意志は「強い意志」から生まれるような気がするものです。ところが、僕はそうではなく、前述のように「自由意志は、弱い意志から発生する」と考えています。

このアイデアは、読者の自由意志についての直感に反するかもしれないから、ちょっと丁寧に書いていきたいです。真面目に書くつもりでいるけれど、これは頭の体操であり、軽い気持ちのお遊びなのであって、読者も気楽に読んでくださいやせ。

「自由意志」と「弱い意志」「強い意志」

「自由意志」とは何か

まず、「自由意志」の辞書的な意味を確認しましょう。

人間のうちにあって、自然の因果の必然によって規定されずに自発的に発動する能力が自由意志である。

(一部抜粋 出典 小学館日本大百科全書)

一般に,外的な強制なく自発的になされる行為の原因となるところの意志。

(一部抜粋 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)

「自然の因果の必然」「外的な強制」というのは、「自分以外」ということでしょう。つまり、自分以外の誰か(自然を含む)から仕向けられることなく、自分自身の考えで(自発的に)何かをするとき、そこに「自由意志」が生じている、と言えそうです。たとえば、親から強制されて勉強するのは自由意志ではないし、台風が来て予定をキャンセルし、家に閉じこもるのも自由意志ではないことになります。

この辺りの感覚というのは、皆さんが思う「自由意志」にも合っているのではないでしょうか。

「弱い意志」とは何か

「弱い意志」とは、僕が勝手に作った用語です。同じ言葉(「弱い意志」)を別の意味で使っている人もいるだろうし、僕が言いたいことと同じような意味内容を別の言葉で言っている人もたくさんいると思うので、僕なりの「弱い意志」の定義を書くと、こういうことです。

「弱い意志」とは、こだわりがなくどちらでもいいという態度である。

具体的に言うと、パスタランチのドリンクはコーヒーか紅茶、どちらがいいかと聞かれたとき、迷いながら決めるあの感じ。東京ー福岡間の1時間半の飛行機の座席について、窓側か通路側どちらがいいか聞かれた時にまさに「どちらでもいいです」と答えるあの感じです。

なぜ「どちらでもいいです」と言うかというと、大抵の場合、考えるのが面倒臭いからですね。

「強い意志」とは何か

「強い意志」も、すみません、僕が勝手に作った用語です。基本的には、弱い意志の反対で、

「強い意志」とは、こだわりがあり頑なな態度である。

といったところですが、この「強い意志」は自由意志と相反するものである、ということが僕の言いたいことです。これは直感に反すると思うので、例を挙げて説明します。

「強い意志」の事例 その①

「アイスクリームは必ずバニラ」と決めているV氏がいます。アイスクリームのフレーバーについて「強い意志」を持っている人、といえます。V氏は、チョコレートアイスがおすすめのお店(ベルギーから直輸入したチョコレートを利用している!)に行って、3人の友人が全員チョコレートを注文しても、自分だけバニラを注文します。

ちなみに、V氏はバニラもチョコレートも、どちらも好きです。チョコレートが食べられない、あるいはチョコレートが嫌いだからバニラを選んでいるとすれば、そもそもV氏がバニラを選ぶのは「チョコレートが食べられない/嫌い」という、「外的な強制」によるものです。そうではなくて、V氏は完全に自分の意志でバニラを選んでいます。

このとき、一見すると、V氏は自由意志らしきものを持っているように見えます。「おすすめはチョコレート」「みんなでチョコレート味の感想を共有」という外的な(半)強制を退けてバニラを注文するという意味では、たしかに自由意志的に見えるふるまいです。しかし、僕の理解では、V氏の「アイスクリームは必ずバニラ」という「強い意志」こそが、アイスクリームのフレーバーを自発的に選ぶという「自由意志」を阻んでいます。

チョコレートもバニラも好きなV氏にとって、チョコレートがおすすめのお店ではチョコレートを選ぶというのが合理的な選択であるはずです。少なくとも、チョコレートは嫌いではないし、チョコレートがおすすめなのだから、判断が揺らいでもおかしくありません。ところが、自らの「強い意志」のせいでチョコレートの選択肢を完全に排除してしまうというのは、自由意志で自由に選択することができなかったと考えます。

「いやいや、『アイスクリームはバニラ』という彼自身の嗜好こそが本当の"自由意志"ではないか。それに、合理性うんぬんを持ち出すのはずるい」という意見があると思います。

では、V氏が「アイスクリームは必ずバニラ」と決めているのはなぜでしょう。物心がついて間もないうちからバニラへの欲求が湧き上がり、「アイスクリームはバニラ」だと考えを固めるに至ったとしましょう。そこに他者の介在、つまり「自然の因果の必然」や「外的な強制」はなかったのでしょうか? 母親がたまに買ってきていたアイスクリームのフレーバーが、バニラだったという可能性もあります。小さい頃に、バニラアイスが好物の主人公が出ていくる漫画を読んだせいかも。そういえば、最初に食べたチョコレートアイスは安物だったか、高級品だったか? どのような「強い意志」を持つに至ったのであれ、それが「強い」ということは、なんらかの外的要因によって強化されてきたと見るべきです。そのように考えると、彼が「強い意志」を持っているのは、紛れもなく過去の自分や他者の影響下、すなわち「外的な強制」にあると言えます。

「強い意志」の事例 その②

同じようなことが、人生のもっと大きな選択についても言えます。自分は絶対に医学部を卒業して、医者になると固く心に決めている高校生のI君がいます。I君は自分の将来、つまり医者になることについて、「強い意志」を持っています。

ところが、I君は勉強ができません。新しい概念や単語を覚えることが苦手で、仮に私立大学の医学部には合格できても、六年間の学業をこなし、医師国家試験をパスすることは不可能に近いでしょう。それでもI君は医者になると言って譲らない。幼い頃からの、強く信じた夢だからです。周りの教師や親の言うことも聞きません。

I君自身、昔から「自分は医者になるんだ」と信じきっていた理由が定かではないとすれば、どうでしょう。テレビで難病患者のドキュメンタリーを見たからかもしれませんが、自分でもはっきりとは覚えていません。あるいは、幼い頃に祖父をがんで亡くしたからで、いまもその出来事が心の深いところで動機となって、医者になりたいのかもしれません。とにかく、はっきりとした理由はわからないし、わかる必要もないと思っている。

このI君の決心、つまり「強い意志」は、自由意志に基づいているでしょうか。この「自由意志に見える強い意志」がどれだけ現在のI君を苦しめたとしても、それはI君の自由意志によるもので、このI君の苦しみはI君自身が選び取ったものなのでしょうか? そうではないと考えます。

I君は、過去の自分という強力な他者から、いわば外的な強制によって、自分の将来を自由に選び取る自由意志を剥奪されている。この一見すると自由意志のように見える、実のところ「過去からの束縛」によって不合理な判断しかできない意志を「見かけの自由意志」と呼んで、今この場で発動されるべき真の「自由意志」とは区別したいと考えます。

「強い意志」の再定義

ここまでの議論を整理しつつ、「強い意志」とは何かをもう一度定義します。過去の自分から引き継がれてきた「強い意志」は、明確な合理性がない場合にはとりわけ、過去の自分からの「外的な強制」になり得ます。「過去の自分」から「現在の自分」へという「自然の因果の必然」に規定されているのであって、「自発的」であるはずの自由意志とは大きく異なります。まとめると、以下のようになります。

「強い意志」とは、過去を含む外的要因によって強制されて生じる頑なな態度である。過去という特殊な外的要因から強制されている場合、自由意志であるかのような誤解(「見かけの自由意志」)が生じうる。

「自由意志は、弱い意志から発生する」という主張のまとめ

簡単にまとめると、こういうことです。自由意志を持つためには、弱い意志を持たなければいけない。弱い意志とは、どちらでもいいという態度のことです。周りの声を聞いたり、空気を読んだりすることもあるでしょう。頭の中でサイコロを振ってもいい。そのようにして、自分のこれまでの傾向から逸脱した行動を自分自身に許すことによって、自由意志に最も近づくことができるはずです。反対に、強い意志を持っていると、判断は固定化されてしまいます。協調性やランダム性に基づいた、いまの自分にとって最も合理的な判断ができなくなります。油断をするとすぐ、強い意志は過去と絡み合い、強力な外部となって自由意志を阻害します。

過去の経験に基づいて、強い意志のもと何かを判断するというのは、何度も強化された脳の神経回路を使っていることに他ならなりません。本来、自由意志というのは、それに従うと判断にブレが生じざるを得ないはずです。自由意志というのは、ほとんどサイコロを振るようなものだ、という気すらします。

経験と判断の連鎖の中で、人は自由意志を失っていきます。そこから自由になるためにはサイコロを振って、偶然性に身を委ねる必要があるのです。

コウモリであるとはどのようなことか?

長々とまわりくどいことを書いてしまいました。ここから先は、気軽なエッセイになります。そもそも僕が自由意志というものについて考えるきっかけとなった、プーチン大統領のウクライナ侵攻についても書いてみます。

表題の「プーチンであるとはどのようなことか」という問いは、有名な「コウモリであるとはどのようなことか」という哲学者トマス・ネーゲルの問いから取っています。

「コウモリであるとはどのようなことか」の論旨を要約すると、「コウモリのなかに私が入ったら、コウモリ流にしか考えたり感じたりできないはずだよね」ということです。コウモリの脳は人間の言語を処理しないので、「あたしはコウモリに入っている人間」という概念は保持できません。したがって、「コウモリに入ったら魔法使いのところまで飛んでいって、人間の姿に戻してもらおう」と思ってコウモリに入っても、あとはただ他のコウモリと同じように超音波を出して、翼でバタバタと飛んでコオロギを捕まえるしかないのです。

ネーゲルがこんな論文を書いた動機は知りませんが、人は「もし自分がコウモリに入ったら」と考えるとき、「元に戻る方法を探さないと」「コオロギ食べたくないな」というように、当然のように自分の脳を保持したままコウモリに入ることを想像してしまいがちです。「コウモリはコウモリの捉え方でしか世界を把握できない」という当たり前のことが、つい抜け落ちてしまいます。

プーチンであるとはどのようなことか

僕は、ネーゲルが論文で指摘したのと同じような過ちが、プーチン大統領をめぐる言説でも頻繁に登場しているように思います。プーチンの言動を見て、「彼は気が狂っている」と断言してしまう人たちがそれです。超音波を出してコオロギを捕まえる時のコウモリの脳で行われている処理は、私たちには全く理解できません。それでも「このコウモリは気が狂っている」とは言えないはずです。それはプーチンの脳でも同じです。

なぜなら、プーチンの脳はプーチンの過去、人生から構築されているという点で、やはり私たちの誰の脳とも異なるからです。両親の記憶、出会った友人、こなしてきた仕事、政治家仲間との会話、趣味から好きな食べ物まで。彼の人生の、生まれてからすべての一秒一秒が、いまの彼の脳の神経回路と彼の意志を作っている。そういった意味で、プーチンの中に私の脳を持ち込むことはやっぱりできません。

それでも、希望はあります。プーチン大統領がこれまでの人生で見聞きしたあらゆる物事と、彼の人となりを学び、彼の脳の動き(考え方)を想像することはできます。これが、コウモリとプーチンの違いです。私たちがプーチンの世界の捉え方をほんの僅かでも捉えることができるかもしれないということは、残された一縷の望みであるはずです。

「弱い意志」を大切にすること

何かを柔軟に考えて、合理的な判断を下すには、本当は意志が弱くなければいけません。プーチンの人生と経歴を見る限り、彼の意志はとてつもなく「強い意志」であるように感じられます。

実は、戦争を始めるというような異次元の決断ではなくても、就職や結婚のような大きな決断においてこそ、われわれは自分の過去やこれまでの経験によって、がんじがらめにされます。自由意志は「いま」「ここ」の判断を可能にしますが、今後の人生を左右するような選択を迫られたとき、人はつい「これまでの自分の人生、すなわち過去の中に、正しい選択の根拠があるはずだ」と思います。そうして、自由意志から離れていき、過去の自分が生み出した「強い意志」に頼りがちになる。大きな決断ほど、当たり前ですが、頭の中でサイコロを振って「こっちでいいや」となることはありません。完全な偶然に身を委ねることは、危険すぎるように思えます。

それならせめて、われわれ人間は、「弱い意志」を持つべきです。「自分はどうしたいのかわからない」ということを、ありのままに周囲に打ち明ける。どういった判断が合理的なのか、周りに尋ねてみる。これはある意味で、偶然に身を委ねることでもあります。それでも、ただ目を瞑ってサイコロを振るような、完全な偶然ではない。「弱い意志」だからこそ導くことができる、細工のついた少しマシなサイコロ。

それでも、「強い意志」よりはマシなように思えるのです。「弱い意志」には偶然性が付きまとうけれど、なんなら偶然性こそが自由意志の本質にあると言ってしまってもいい。

「強い意志」こそが素晴らしいのだ、という気分や雰囲気を、仕事やスポーツ、はたまた人生論まで、われわれは当たり前のように受け入れています。ぼくはそのような「強い意志」こそが、いろんな人の人生の、あるいは人類の大きな物語の、さまざまな悲劇を生んでしまっているのではないか、と思うことがあります。だからこそ「強い意志」を、「自由意志を阻害するもの」とまで言い切ってしまいたいと思うのです。

読んでくれた人へのお礼

こんなややこしくて穴だらけの文章を読んでくれてありがとうございやす。皆さんの人生が、肩の力が抜けた「弱い意志」に満ちたものでありますように、祈っております!

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