見出し画像

「無敵の人」と葉っぱ隊ーーあるいは全身を七色に輝かせて走ることについて

平成生まれの僕にとって、「無敵」といえばマリオカートを思い出す。マリオカートは、十台くらいのゴーカートが道に落ちているキノコやカメのこうらといったアイテムを活用しながら、一位を目指して激走する任天堂のゲームである。

アイテムの中でも、みんな大好きなのが「スター」だ。あれを取ると全身が虹色に輝き「無敵」になって、スピードが上がり、接触したゴーカートを吹き飛ばす。さらに、どんな攻撃にも耐えられるようになる。

「無敵」の使い方は、大きく二つある。一つはもちろん、上位入賞を目指してコースをひた走ることだ。しかし、どんなに頑張っても上位は狙えないくらい差がついていることもある。そもそもスターは、下位を走っているプレイヤーの方がゲットしやすい「温情」的なアイテムでもある。

そこで二つ目の用途が生まれる。あえてコースから外れて、ドカンや木などを吹き飛ばして遊ぶという使い方である。ドッスンなどの敵キャラに接触すると、普通はこちらが一方的にやられてしまうのに、「無敵状態」であれば反対に吹き飛ばすことができたりもする。もちろん、そんなことをして遊んでいると、もうレースはそっちのけだ。64のマリオカートではピーチ城の周りを走るコースがあって、木々をすべて吹き飛ばし、城の周辺を更地にするのに夢中になった小学生も多かったはずだ。

ということで、僕は「無敵の人」という言葉に圧倒的なワクワク感を感じる人間である。それなのに、世間では「無敵の人」がさも悪いように思われていて、謎である。

無敵でない人、つまり失うものがある人生は、大変だ。たとえば、愛娘。ハリウッド映画では、悪役に誘拐された娘を取り戻すのはよくあるパターンだけれど、いざ自分の娘を誘拐されたらお手上げで、「祈る」くらいのことしかできない僕たちである。

娘だけではない、仕事もそうだ。責任のある仕事だとストレスも溜まるし、制約も多い。家柄だってそうで、いい家柄に生まれた人は、たいてい家族との協調を強いられる。守るべきものがあり、無敵でなくなると、やはりしんどい。それに対して、「無敵の人」は身軽である。

だいたい、無敵の人が犯罪行為に対するためらいが少ないとするならば、新しいことへの挑戦に対しても、ためらいが少ないはずではないか。

たとえば、僕は6年ほど前になんの計画もなく、突然海外に引っ越しており、それは僕が「無敵の人」だったからに他ならない。そしていまだに、僕は僕の無敵を楽しんでいる。「自分も海外に行きたい」という人の話をたくさん聞いたけれど、やはり世間的にいい仕事をしていたり、世間的にいい家柄の出身(注1)だったりする人は、圧倒的に無敵ではなく、失うものがありすぎるので海外移住は難しい。

もちろん、海外移住なんて膨大な選択肢の一つにすぎない。無敵なら何にだって挑戦できる。

いやあ、やはり、無敵はいい。そもそも犯罪行為が悪いのであって、無敵は全然悪くない。無敵の人は、無敵を謳歌するべきである。ただし、人の道を外れてはいけないというのが、難しいところでもある。

マリオカートでも、無敵だからといって調子に乗ってはしゃぎまわり、川に落ちたり、コース外に落下したりすると無敵状態は解除される。ジュゲムという謎キャラに釣り上げられて救出、という悲しい運命が待っている。無敵状態は有効に活用するべきである。(注2)

でもまあ、「自分には失うものがない」と思っている「無敵の人」にだって、実は失ってないものがたくさんある。たとえば「自由」。好きな時間に起きて、好きなものを食べ、好きな音楽を聴き、行きたいところに行く自由は、悪いことをして警察に捕まったら制限されてしまう。日本に生まれ育って、そういう自由が空気みたいに「当たり前」だと思っている人が、「自分には失うものがない」なんて体それたことを思うのかもしれない。葉っぱ隊だって、そういう歌を歌っていたじゃないか。


注1)海外在住の日本人は、ぼくのように日本社会に何もなく圧倒的に無敵の人と、謎に高貴な立場であるが故にガチの無敵の人とに二極化していると思う。諸外国(特にアジア)では、海外に出る人というのはいうのは新興中流階級が多いので、日本だけ謎である。

注2)世間で言われているような「無敵の人」が、実際に増えているかどうかは怪しい。殺人などの凶悪犯罪は減っている。みんな僕のように、「無敵」という語感がおもしろいので転がして遊んでいるだけという説もある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?