泉鏡花のような流麗な文体をものにするために
自己紹介
曽祖父が直木賞作家と作家家系ゆえ、親戚にもひと昔前編集局長を長年つとめられた方など文学好きが多くございますが、どうも現代の編集者は売れること(読み手が主)で文学を語らうようです。これは1200年もの遡り、長い目で日本文学をみるならば、特異な時代と申すことができましょう。
こんな特異な時代で私は、純文学というものに読むのも書くのもはまってしまいましたので、twitterなどの活動を始めたのであります。
王朝の作品まで遡る必要性の可否
川端康成氏によると、文豪の中には、王朝の作品になんらかの影響を受けた者が多いと記述されている。(この発言自体は、執筆法に限定して述べたものではない)
私は綺麗な文章を書くにあたって王朝まで遡る必要性については、半分は正解で、半分は不正解であると述べるにとどめる。
半分は不正解と述べたのにも、理由があって文章の字面を綺麗にするには、王朝の言語まで遡る必要はない。東洋・西洋から今もなお多数の単語が輸入され続けており(谷崎潤一郎の書評に細やかに綴られている)、それらを組み合わせるだけでも美しい字面の文体は簡単に完成するからである。
しかし、綺麗な字面の文章を流麗に操るには王朝まで遡る必要性がある。
綺麗な静的言語のみでも、宮沢賢治のように直喩の使い回し、助詞助動詞の組み立て方によって幻想的な世界観は構築可能である。
他方、流麗な文体で著名な文豪泉鏡花のように静的言語を自由自在に操るには、王朝まで遡る必要性を感じる。
例えば下記の和歌に着目したい。
(57577の中に織り込まれてる技法自体は、さほど重要ではない)
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞
いつへの方に 我が恋止まむ
これは、仁徳天皇への自分の恋の願望を、朝霞に例えた歌であるが、
私が着目したのは、この和歌の朝霞が担う多重的役割である。情景喚起のみならず、比喩、場面の切り替わり方の役割を担っている。
蜻蛉日記など、昔の物語はよく省略が多くて読みづらいとの声を聞くが、一語一語が一役割以上の役割をになってるともいうことができるのではないだろうか?
この多重的役割を語句負わせるセンスの有無で、文章の流麗さは決まると感じる
さて、ここまで読んだ読者の、方々であれば是非とも綺麗な文体をものにしたいという方々ごほとんどであろう。
綺麗な文章を書きたいのであれば、生きた文章を読むのが1番である(単語のみでは×:太宰治より)。
しかしここで二流以下の編集者であれば、単に模倣を進めるであろう。
私は、綺麗な文章を書くにあたってもあくまで、執筆(実践)>読者(インプット)の主従関係は忘れてはならないと考えている。
故に、執筆技術を習得するには以下の流れが必要だと感じる
①一つの作品を書き上げる(クオリティは問わない)
↓
②参考にすべき優良な作品を選ぶ
↓
③作品を読む
↓
④作品を書く
①〜④全ての工程が優劣なく大切で、逆を言えば、これらの工程が一つでも欠けると独創的な作品は描けても、流麗な作品は書けない。
①〜④の詳細は第2回以降に回します。
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