いろいろ雑考


頑張りすぎると糸が切れる

ここ数日ニュースでいろいろ取りあげられている。
皆さんに伝えたい事は【命を大切に】してほしい。

私ごとだが、介護は心身ともに疲労困憊する。
その介護を一人でするのか?
一人で両親(老々介護の場合結果的に)を介護するのか?

父が母を介護してたが一人ではとてもできない。
こまごまなことを手伝ったが
本人は一人でしていると思っていた。

これは、本当に一人ならどうなるかを体験してもらうしかないと考え
二世帯住宅で同居していたが、すべて見て見ぬふり。
一切手を出すことをやめた。
3日ほどすると父が「いじわるせんといてえなー😢」という発言をした。
私は「全部自分でやっている」と言ったからじゃあそうしてもらおうと思っただけやけど何か問題ある?というやり取り。

私は父が倒れたら二人を見ることになるので困ることを伝え
今までよりよく話し合うようになった。

丁度そのころ知人が事件を起こした。
包丁での殺傷殺人と介護の母を自動車事故に見せかけての殺人。
これは嫁と姑などの問題も絡んで そうなるべくして…と思わないでもない痛ましい時間だった。
また、同窓会があったが、一人来ていなかった。
安否を尋ねると「知らんの?新聞に載ったよ。お母さん介護して二人で亡くなったんよ」という返事。

そのどちらも私とそう変わらない背景がある。

母が入院していたバプテスト病院は山の上。
車いすを押しながら
「ここで手を離せば終わる~」と何度手を放しかけた事か。
家に帰れば、アルコール依存症の当時の夫がグダグダで家にいると思うと
疲れ果てていた。
それでも 自分のビジネスを作りたいと当時グループ人数は150人はいただろうか。そして4人の息子。
私が事件を起こしたら その人の気持ちはどうなるのか?
私を信じてついてきてくださっているのになあ。。。

この状況はカウンセリングを受けるしかないなと思い受け始めた。

介護は家族で支えてもらえると何とか回って行く。
が、
家族が協力しない、もしくは 足を引っ張るようなことをすると
一家バラバラになる。

さらに仕事で重責を担っていると
それだけでも大変だと思う。

一人孤独感は若者の気持ちを萎えさすのか?

希望を持っているからこそ一人だという孤独感は気持ちを萎えさすのかもしれないと 最近思うことがあった。

私は一人っ子で一人居ることが時間的に多かったのか 人の中にいるとついつい一人になりたい事がある。

けれど外国から来た方の中には、
友達ができない
仲間にはいれない
ホームシックになる
日本に安心する場所が無い
などとおっしゃる

外国から来た人だけでなく
日本に住みながら居場所が無いという人も多々。

元来、人はひとりで産まれて一人で死んでいく

と私は思っている、私は思っているのである。
だから生きている間は誰かと関係性を充分作って、楽しんで生きるほうがいいと思っている。

初めての人間関係はお乳をもらうことから

産まれたての人は受け身である。
が、乳首を探して自分で飲むことは 授乳したことあるなら気がつく。

母親がそんな乳児を大切に 目を見て言葉がけをしつつ世話をしていく。
もう世話をしなくても自分で出来るようになっても世話をしてしまうと
青年になってもしてもらえると受け身の自分のまま体だけは大きくなる。

学校の成績は良ければ親がよろこび、期待に応え成績は優秀。
生活力というか自分で判断することは極端に少なく
言われた事は出来るという状態。

本当にそれでいいのか?!



親離れをしろという前に子離れを!

文明の利器(古臭い言い方だと思うが)電化が進みお母さんの仕事が楽になった。これは松下幸之助さんが彼の幼少の時代に「お母さんを楽にしたい」という思いでいろいろなことを発明されて行った。
それを母は自分の人生に時間を使うことに目を向けず 子どもや夫に目を向けたのではないか?過保護過干渉。
そして教育も 「教わった通り」でなければ問題児扱い
そういう時代、背景を持つ優秀な青年になったはずの人が
心が熟さず、自分の事も親の許可がいる、決められないという人を作っていると感じている。
これは青年だけじゃない
60を過ぎた方にも言える。
言われたことはします。
クリエイティブとはいいがたい。

AI チャットGPTが普及していく中で

自分の考えを持つことは大事ではないでしょうか?
私自身も「上倉はなにがしたいんや?」と心理学を学んだところの理事長に
何度も問いかけられ気がついたことは「一番やりたい事はすべてと言っていいほど反対され諦めてきたので、解らない」という状態だと気がついた。
当時はAIもチャットGPTもなかった。
親がその役目(答えを出す)をしていたんだな、きっと。

答えのある、正解のあることばかりしていると
生きるというすべて正解・答えが無い・づっと考え続けるなど辛いことになるのかもしれない。
生き方の一つとして、答えがある・正解があるということで安心して、その正解に合わせて生きてきたのではないか?

お母さんや養育者は 育っていく中で自分で考えて選択し・行動・振り返り、さらに良くなっていくように改善していくような生き方ができるように
在るということが望まれる姿ではないか?

私の氏名(=使命)は自分自身を知るお手伝いをする事

気張りすぎず、車のハンドルの様に遊びも持たせ内面を見るお手伝いをしていく。
60代最後の年はどんな形でやっていくか?いろいろ試してみることにする。
「リトリート」現実生活を離れてということも含まれるが自分の生活圏から離れるだけでも冒険であるはず。
その場を提供していくことができることの一つ。
そして、話し相手になる事・傾聴だな。

チョットつらつら思考を言語化してみた。



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