泣き虫弱虫諸葛孔明(1回目)

②酒見先生を読んでの考察必要リスト
・劉備は孔明に対し三顧の礼をして迎えるが、実際に最初の頃は全く孔明の意見を聞いていない。何故か→長坂坡の時点で孔明はまだ半年しか劉備たちのもとにいないため信用ならなかったから。(この時代は若造の年齢はどのくらいか?また人材を抜擢する時、普通は最初にどのくらいの役職につけるのか調べる)
・魯粛は劉表が死んだと聞いて弔問を建前に劉琮と組もうとした。しかし事間に合わず曹操が先に荊州を降してしまう。その時に当陽の劉備の元を訪れ、共に江陵に向かうこととなる(陳寿の述べる史実)。何故劉備を訪ね、更に共に行動したか?
・荊州が降った時に劉表の元部下王粲も曹操に主人が変わったわけだが、何故龐統に関しての発言はしたのに孔明の発言はしなかったか。更に何故荀彧は人材リストに孔明を入れなかったのか。
・樊城から襄陽を経て江陵へ逃げる劉備一行が、関羽に対し「船を用意し民を江陵へ輸送せよ」と命じた。劉備たちが漢津に辿り着き関羽と落ち合うわけだが、それまでの経路にどうしても矛盾がある。実際には関羽はどう動いたorどういう目的で命令された可能性が高いか。
・何故劉備の元に十数万の民が付いてきたのか。
・劉備は叔父にお金を出してもらっていたにも関わらず、服・音楽・戦いを好みろくに勉強をしなかった不良少年だった。感情をあまり表に出さず、故郷では不良集団のリーダー格となっていたという。劉備の人間的魅力はどの行動からどのようなものと考えられるか、そして歳を重ねるに連れて、どのように振る舞いが変わっていったか。また、その考察から、劉備の言動や部下に対する接し方、普段の行動はどのようなものが一番妥当か。(横山三国志は真面目好青年すぎるし、ドラマもまともすぎる。蒼天と酒見さんのはハッチャケ過ぎている)
・当時の将軍たちにとって民とはどのような存在でどのような扱いだったのか。
・夷陵の戦いで孔明が援軍を出さなかった理由は?また東征をやめるよう諫言はしたのか?
・夷陵の戦いの最中に孫権が人質を差し出さないことを口実に曹丕自ら南下して呉を攻めた。この時孫権は使者を出し、降伏した。内容は、「お見逃しくださらないなら土地も人民も奉還します」というもの。その気になれば呉を滅ぼすことができたかもしれないのに、何故曹丕は奉還もさせずただ許したのか?

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