横山禎徳さん

横山禎徳さんが亡くなった。訃報を人づてで聞いたのは4月4日。葬儀を親族内で行うために内密に、ということだったのだけれども、新聞の記事にもなったので、Obituaryを書くことにする。

横山さんに初めて会ったのはユニゾン・キャピタル時代。横山さんはユニゾンのエグゼクティブ・カウンシルをしていた。マッキンゼー出身の上司が「知の巨人がいる」と評していたのが横山さんだった。ユニゾンの年次総会のときに勇気を出して声がけをして、そこから会いに行った。

初回のミーティングのことは今も覚えている。部屋に立てかけられている写真の話や12世紀ルネサンスの話を振られて、全く答えられないうちに「何もものを知らないんだな」と散々にこき下ろされた。

「もっと勉強してくるので、また会ってもらえますか」とお願いした。それから、僕は横山さんの事務所に通うようになった。

僕の横山さんとの関係は、なんの利害関係もないものであり続けた。僕は横山さんに株主になってくださいとは話さなかったし、横山さんの知り合いの紹介をお願いするということも一度もなかった。ただただ年に2回ほど会って話す(実態としては、僕が一方的にこき下ろされる)というだけだった。

横山さんの知識量はすさまじかった。しかも、その知識は単に幅広く深いだけではなく、全てがきちんと統合されていた。領域は、歴史、アート、デザイン、哲学、科学、思想と、とてつもなく広い。博学強記とはまさに横山さんのことだろう。

でも、横山さんの一番すごいところは、知識そのものではなく知的規律だと思う。分かりやすいステレオタイプを用いず自分で考えること。同じことを何回も考え続けること。安易な二者択一で考えないこと。自分の言葉を使うこと。自分を卑下することで逃げないこと。そういったことがなっていないと、いつも厳しい叱責が飛んできた。

僕がアートやデザインに関心を示すようになったのは、もともと前川國男事務所で建築家をやっていた横山さんの影響だった。彼に見えている世界が見えるようになりたかったので、これらを学ぶようになった。展示を見に行くようになった僕に横山さんがくれた「良いか悪いかで評価をせず、好きか嫌いかで評価しろ。そうすれば目が養われていくから」というのは金言だったと思う。それからもう500くらいの展示を見てきたと思うけれども、お陰で自分の目がある程度はできた気がする。横山さんのアドバイスがなかったら、僕は単なるアートの物知り人になっていたかもしれない。

誰でもけなす横山さんが唯一手放しで称賛していたのはマービン・バウアーだった。僕もこの20世紀のビジネス界の巨人について調べていたので、実際にマービン・バウアーとやりとりをしていた横山さんの話はとても勉強になったし、実は五常の組織づくりには、このときに横山さんがしてくれた話がつながっている。以下は以前に行ったインタビューから抜粋。

慎: 当時のマッキンゼーには、オフィスが同じではなかったとしてもマービン・バウアーさんが在籍していて、東京支社長としてやりとりすることも多かったと思います。彼からは何を学ばれましたか?

横山: バウアーは初め弁護士事務所に入っています。弁護士事務所という組織はすごくヒエラルキーが強い。有名な弁護士ジョークに、シニアパートナーがみんなを集めて"We're all equal. But I'm more equal than you."というのがあります(笑)。3年でパートナーにならなければいけない、パートナーなると収入から人件費などの経費を引いて残ったものをパートナーで分けるのだから、1年間給料くれない、とか、けっこうシビアな世界なんですね。

彼も3年でパートナーになれなかったんだと思うんです。だから出来て間もない、ナンボのもんかわからないジェームズ・O・マッキンゼーのマネジメント・コンサルティングの事務所に入ったわけですよ。当時は「マネジメント・コンサルティング」はプロフェッショナルとしてとして認知されていない。だから、弁護士事務所と同じくらいには認められるように経営したいけど、弁護士事務所のようなきついヒエラルキーだけは排除したいというのが、多分彼の想いだったんです。

ジェームズ・O・マッキンゼーという人はシカゴ大学の会計学の教授で、公認会計士事務所を持っているんだけど、それとは別にマネジメント・コンサルティングの事務所を作って、その後、シカゴの大会社のCEOにスカウトされ、その3年後に48歳で肺炎で亡くなったんです。そのときシカゴとニューヨークにオフィスがあって、シカゴオフィスはアンドリュー・トーマス・カーニーがオフィスマネジャーで、ニューヨークはマービン・バウワーがオフィスマネジャーだった。

ジェームズ・O・マッキンゼーがファウンディング・パートナーでほとんどの株を持っていたと思うんだけど、マービン・バウワーはすぐにカーニーに話をして、マッキンゼーという名前を買い取っちゃうわけです。だから、マッキンゼーのシカゴオフィスはA.T.カーニーになって、ニューヨークはマッキンゼー・アンド・カンパニーになったわけです。マービン・バウワーは自分の名前を使わなかったわけだけど、その違いは何だかわかりますか?

要するに、すべてみんなヒエラルキーの世界に生きているから、クライアント開拓をすると代表が挨拶に来いという話になるわけですよ。「誰がいちばん偉いんだ、バウワーがトップならバウワーが挨拶に来い」と、そういう話になるわけですが、それは彼の平等意識の感覚に合わない。マッキンゼーという名前を買い取っておけば、「誰がいちばん偉いんだ、マッキンゼーか、だったらマッキンゼーが挨拶に来い」って言われても「もう死んでますから」って言えるわけです(笑)。マービン・バウワー平等意識というのは徹底していましたね。

彼は自分か持っていたマッキンゼーの株を後に多くのパートナーに分けましたが、買い取った時の価格で売りました。グリード(強欲)も彼は徹底的に嫌いました。

https://gendai.media/articles/premium01/42457

五常・アンド・カンパニーという社名は、仁義礼智信という価値のもとに集まった人々という意味で、それは自分の名前を社名に使わなかったマービン・バウアーに倣ってつけている。横山さんの話を聞いていなかったら、社名はただの株式会社五常だった可能性が高い(全く同名の社名があるけれども)。


いつも斜に構えて、誰彼構わずこき下ろす横山さんだけれども、とても優しい人だった。普段はアポを取ろうとしても必ずかなり先にセットされるのだけれども、僕が本当に困っていて、横山さんに意見を聞きたいときはすぐに会ってくれた。

僕が横山さんに相談しても、横山さんは「こうしろ」とは言わない。僕の思考プロセスのおかしなところを指摘されたり、他の会社や組織の話をされたりする。要は、自分で考えるための土台を作ってもらっているだけで、あとは自分で考えろ、ということだった。

そんな感じで、10年以上鍛えられた。最後に会ったのは去年の10月末だった。僕と横山さんのセッションはいつも1時間きっかりで、何があっても必ず時間内に終わっていた。だけど、この日だけ、横山さんはいつもよりずっと長く話していて、2時間弱になった。なにか虫の知らせがあったのかもしれないと今になると思う。

そういえば最近はあまり馬鹿だと言われなくなった気がする(単に諦められただけなのかもしれないけれども)。今の僕が10年前よりも知性や教養(単なる物知りでなくて統合知としての)において優れている人間になれたのだとしたら、横山さんの影響なしには考えられない。

利害関係も何もなしに、横山さんは僕に10年以上付き合ってくれた。いつも叱責ばかりされるので、自分がいかに感謝をしているのか、ちゃんと面と向かって伝えられなかったことをとても後悔している。ちゃんとお礼を伝えたら、照れくさそうにニヤニヤされて、皮肉の一つでも言われたのだろうか。

横山さんに「時間の無駄だったな」と思われないように、これからも学び続けて、きちんと成果を出そうと思う。


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