週末レビュー(2021年9月12日):9.11、児童相談業務評価機関など

秋だな。

週の出来事と雑感

9月上旬て、こんなに晴れ間が少なかったっけ。残暑ももう少し厳しいものだった気がするのだけれども、天気が悪いせいか涼しい日が続く。

今週はとにかく忙しかった。たいてい10時から22時くらいまでは予定が埋まっていた。アポ中に他のことをしないと決めているので、結果としてメールやチャットの返信をしているとすごく夜が遅くなる。一応無事にタスクを終えられたのではないかと思っている。やるべきだったことを忘れている気がするのだけれど、それが何であったのかが思い出せない。


9.11から20年が経つ。あの日のことは今もよく覚えている。当時大学生の僕はサウナのテレビでこの様子を見ていた(僕は小学生の頃からサウナに入っていた)。あまりにも現実離れしていた風景だった。

そこからアフガニスタンでの戦争がアメリカ国民の熱狂の中から始まり、僕ははじめてアフガニスタンという国について知るようになった。大国たちの都合でボロボロにされ、その後世界中が見て見ぬ振りをしてきた国。米軍が攻撃を始めると、アル・ジャジーラが犠牲になった民間人の写真がネットに出回った(この頃は、もうPCさえあればこういう情報が見えるようになっていた)。アル・ジャジーラのことを知ったのもこの時期だった。

当時は人権運動の集会によく出ていた。無学だった僕にとっては、そういう場で話している人たちの話が新鮮だった。アフガニスタン・イラクでの戦争反対のためのデモにも参加した。その後、僕はデモや内輪の人権議論よりも、世の中の仕組みそのものが変わる必要があると考えるようになって、資本主義を学びたいと思って金融機関に行こうと決めた。

一度も訪問したことがないにもかかわらず、アフガニスタンという国は、僕の大学時代の思い出のかなりの比重を占めている。空爆で犠牲になった女の子が運び込まれている様子などは、今も覚えている。遠くにいるにもかかわらず、ずっと近さを感じる国。

そのアフガニスタンの今の状況を見ると、言葉では表現しきれない悲しみと怒りと虚無感に包まれる。8月上旬くらいから、時間さえあればずっとアフガニスタンのニュースを見てしまう。タリバンが政権をとったものの、反タリバンの勢力がすでに戦いを始めようとしていて、ここからまた泥沼の状態が続くんだろう。

僕に何ができるんだろう、ということは今も考えている。会社の仕事ということでいうと、当分は難しそうだ。


児童相談業務評価機関が立ち上がる。

全国の児童相談所を回るようになって、「ルポ児童相談所」が出版されたのが2017年1月。そこから少しして、厚労省からでたレポートで一時保護改革がはじめて掲げられるようになったのが2018年で、児童相談所の第三者評価の実施検討委員会の委員をやっていたのが2019〜2020年。そしてついに、立ち上がった。

この設立で多少は役に立てた気がする。ただ、ここからまた理想状態にまで近づけていくまでに10年はかかると思う。もう少し早くベストな状態にするべきだという意見にも一理あるし、現に今児相との関係で困っている子どもがどこかにいるのは事実なのだけれど、こういうものは一度こけると20年くらいは時計の針が前に進まない。だから多少は迂遠なように見えても、コツコツと前に進めていきたいと思っている。

 

20年単位で取り組む私的プロジェクトがもう少しで始まるので、そのプランをつくっている。今週進めたかったのだけど、忙しくて後手に回ってしまったので、来週1日休みを取って取り組もうと思っている。

長期にわたり、かつ重要性が高いプロジェクトについては、基本的な方針を立てたのちに計画を立て、状況の変化に合わせて計画を書き換え、タスクを粛々と遂行していくべきだ。

なぜそれが重要かというと、長期的な最適解と短期的な最適解は往々にして異なるからだ。また、基本的な原理原則や仕組みをつくっておかないと、その場その場の感情や思いつきで対策を講じてしまう。そういったことを避けるためにはプランをつくる必要があると僕は信じているのだけれど、周りを見渡す限り、同じようなことをやっている人がほとんどいない。仕事では事業計画とか作っているのにね。

 

隔離も終わったので柔術再開。紫帯の人をスイープできたと思ったら、その後にアームロックを極められてしまい、肘が微妙に痛い状態が続いている。こういうときにどれくらい休むべきなのか、というのはずっと課題だ。いずれにせよ、来週は忙しくてあまり道場にも行けないと思うので、そのうちに治るだろう。

強い人たちとスパーリングをするうちに、帯がどうというより、純粋に強くなるための練習を続けるのが一番である。そもそも黒帯を取るために柔術をしているわけではなく、打撃をある程度覚えた今から更に強くなるために柔術を始めたわけなので。

記録を取りはじめた4月24日から計算して(何回か記入を忘れているかもしれないけれども)、合計練習時間はまだ37時間。1000時間になるまでは、黙々と練習する。


読んだ本・観たもの

三島由紀夫、''文章読本''
文章を精読するということの意味を理解させてくれる本。三島由紀夫の文体からはちょっと違うような本を想像していたのだけれど、彼といえどもオーソドックスな考え方を持っているのだな、ということは新鮮だった。作家は文章について極めて高い解像度で読んでいる。自分もそういう精読者になりたいと思う。

こういうのを読んでいると、短編小説ぽいものを書きたいのだけれども、いかんせん時間がない。書きたいテーマはいくつかある。

豊島圭介、''三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜''
たまたま配信されていたので見た。全共闘の活動が盛り上がっていた1968年に東大全共闘と三島由紀夫が行った討論会の映像を作品にしたもの。

三島由紀夫という人間に対する見方が変わった。僕はいままで彼の書いた作品しか読んでいなかったのだけれども(作家というのは基本的にそういうものだと思うけれども)人間としての三島由紀夫は極めて興味深い、愛嬌のある人間だった。

この討論会に存在する対話の態度が、今の右翼と左翼の間には全くといっていいほど存在しないのが悲しい。理由は想像ができる。討論会に参加していたのはどちらも東大生(三島由紀夫も東大卒)で、意見の交換が成立する状態にはあった(とはいえ、僕はこの映像の中で学生たちが、たぶん自分で定義しきれていない言語を使っているのがなんとなく嫌だけれども)。しかし今は全ての人がネット上で観客になっており、そのうちの多くの人はまともに文章を読むことができない。「論客」たちもそういう人たちをターゲットにしがちになる。そうすると、糞の投げ合いになる。

メディアが全ての人に浸透すると、中央値が下がり、そこに合わせた言論は基本的にゴミになる。もう一方で、分からないのに分かったフリをするのが好きな人も一定数いるので、そういう人々に合わせた「難しい単語を使いつつ論旨がクリアでない」言説も一定数増えていく。信者ビジネスをするにはそのほうが得策でもある。結果として、まともな言論というのが存在しなくなっていく。とても悲しいことだと思うけれども、しょうがない。

スーザン・フォワード、''毒になる親''
ずっと気になっていた本で、たまたま読み終えた。いわゆる毒親という言葉のきっかけにもなった本。虐待する親、コントロールする親、完璧主義者の親などが出てくる。子どもにとって親というのは絶対的な存在であるがゆえに、その親の子どもに対する態度はそう簡単に消えない呪いとして長く残る。社会的養育に関わるようになって、このことについては本当に不覚を学んだ気がする。

30年経った今、本書の主張の全てが科学的ではないかもしれないけれども、現場に立っている精神科医の著者の本だからこそ、学びは多い。


原理原則に基づく雑感

あるファンドで働いている友だちと話していて、投資の意思決定が全員一致であることの重要性について話していた(彼の働いているファンドは多数決らしい)。これはとても大切なことだと思っている。

ここから先は

439字 / 1画像
頂いたお金は寄付に使います。毎年、noteの収益よりずっと大きな金額を寄付しています。2023は7,135,805円でした。

週末随想

¥800 / 月

毎週日曜日(その時の滞在国時間)に書きます。毎週の行動記録、雑感、振り返りが主な内容になります。守秘義務に反するものは当然書けません(匂わ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?