途上国の貧困をドラマ化して売る人たち

途上国で事業をしていると、その情報ギャップ故に先進国からは実情が見えないことが多い。そして、そのことを奇貨として、やりたい放題の事業者も少なくない。これは日本に限った話ではない。

ここでの言葉を整理しておく。
・貧困層:現地の所得中央値半分未満で暮らす人々
・低所得層:現地の所得中央値未満で暮らす人々
(貧困層には絶対的貧困の尺度などもあるのだけど、今日はそこを飛ばす)

金融サービスでいえば、「途上国の貧困層にスマホで金融サービスを届けます」みたいな言説は基本的に嘘だ。大抵の国において、貧困層は現時点でそもそもスマホを持っていないからだ。低所得層の若者であれば持っているけれども、それ以上の年齢層は持っていない。
 また、旧ソ連圏などの特殊な場合を除き、途上国低所得層の識字率は6割程度で、特に中年以上となるともっと低い。だから、スマホを持っていても使いこなせない場合が多い。解決策として、大人が子どもの助けを借りてこういったサービスを使えるようになる機能をアプリに実装するなどが必要だけど、そういった話は聞かれない。
 同様の理由で、「車を買えたら生活が変わる貧困層」というストーリーも嘘だ。貧困層であれば、車以前に必要なものが多い。日本の貧困層に同じ質問をしても、同じ答えが帰ってくるだろう。なお、低所得層であれば、タクシーで生計を立ててみたい、という人は一定数いる。
 同様に、現地の低所得層向けの電気自動車やソーラーパネルに関しても、現時点では明らかにコスト割れしているので、現地の人が受け入れることはほとんどない。それに政府や国際機関が助成をつけて壮大な失敗をする、という話は尽きない。そういうプログラムを何ヶ月もかけて組む前に、現地の村に3日でも住んでみたら、うまくいかないことが分かるはずなのだけれども。
 こういう誠実でない誇大広告があふれている。こういうのはスタートアップ界隈全体で起きがちなことでもあるけれども、途上国に拠点があるスタートアップにはもっと多い。


もう一つ、僕が途上国で仕事をしている先進国の事業者たちを見て嫌だなと思うことがある。それは現地の人々をすごく惨めな人扱いして、自分たちがそれを救うのだ、というストーリーを作る会社がとても多いことだ。
 そういう会社がPR用につくる映像には、「生活に希望が持てない」などということを言っている貧困層が登場する。そして、その人たちが自社のサービスを使用することで、その人たちが貧困から解放される、というようなストーリー仕立てのものが極めて多い。「このサービスで貧困層を救い出す」と宣伝する事業者も多い。

こういうのを見ると、「ふざけるな」という気分になる。そもそも貧困が生じる理由は複雑であって、あるサービス一つで貧困がなくなるのならとっくに無くなっている。だから、「〇〇が貧困をなくす」みたいなのは例外なく誇大広告だ。僕が従事している金融サービス一つとっても、それ一つで貧困がなくなるのなら世話はない。
 もっと腹立たしいのは、こういった映像においては、出演する顧客の人間性や尊厳は完全に消し去られ、単なる「可愛そうな人」に貶められていること。その映像に出演した人(多くの場合、その会社の顧客である)が見たらどんな気分になるか、みたいな想像力すら働かないのだろうか。「どうせ日本語(英語)はできないだろう」と高を括っているのだろうか。

企業だけでなく、途上国支援の国際NGOなどでも同じことが起きる。ハエが顔にたかって涙を流しているのが自分の親戚の子どもだとしたら、それを世界に向けて見せたいのだろうか。人それぞれかもしれないけれども、僕はやらない。
 念の為だけど、現地の写真や映像を撮って流すのが悪いと言っているわけではない。僕たちも顧客の許可を得て写真を撮っている。可能な限り生活の実情に近いもの、かつ現地の生活における喜怒哀楽がうまく表現できるものを、バイアスを落として伝えたいと思っている。Steve McCurryのような写真を撮って伝えられたら、それは最高のことだと思っている。
 僕が嫌だなと思うのは、多くの企業・NGOが無自覚に顧客の尊厳を売り飛ばしていることだ。その線引きを言語で厳密にするのは難しいのだけれども、その企業のウェブサイトや代表者の言うことを通しで聞いてみると、大抵の人には明らかになる。
(なお、ここまで述べたことは途上国に限った話ではなく、日本においても「支援」系の事業によく見られる問題でもある。とはいえ、情報ギャップゆえに、途上国においてはより深刻だと思う。)

このように途上国で活動する企業が誇大広告やドラマチックな話をしたがるのには理由がある。お金を出す人たちがそれを望むからだ。僕も何度となく、「もっとユーザーの生活が劇的に変わったストーリーを前面に出したほうがいい」みたいなことを親切心から言われるのだけれども、僕はそんなことをせずとも事業は大きくできると信じているし、これからもそうしようと思っている。
 加えて、メディアもそういった美談を作りたがる。ときには原稿を見せてもらえなかったりするので、勝手にそういう話が作られてしまったりもする。僕がテレビを苦手とするのはこれが理由でもある(映像においては、事業者側が後で内容を指摘することが極めて難しい)。
 金融サービスは社会的共通資本の一つであって、それにアクセスがあることは人権の一部だ。当たり前でないことを当たり前にしたからといって、日本で貧困が無くなっていないのと同様、途上国で貧困がなくなるわけはない。でも、繰り返しになるけれども、金融包摂は全ての人がもってしかるべき権利であって、それは貧困がなくなるか・誰かの生活が劇的によくなるかにかかわらず提供されるべきことだ。先日Globe+のインタビューで「やりがいがゼロでもいい仕事をするべき」と言ったのはそういうことだ。

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