40歳

10月1日で40歳になった。10年前も同じようなことをしたのだけど、30代の振り返りを書く。

30歳のときに、民間セクターの世界銀行をつくると決めた。その時のことはよく覚えている。天津で2012年に開催されたサマーダボスの閉会式を見ているときのことだ。世界経済フォーラムが民間セクターの国連なら、僕は民間セクターの世銀をつくろうと思った。

それ以降、インタビューされる度に「民間セクターの世銀をつくり、世界中の人に安くて使いやすい金融サービスを届ける」と言ってきた。笑う人はたくさんいた。それには慣れている。計画初期において目標を笑われないようであれば、目標が低すぎるのかもしれない。

31歳で退職した。というのは若干の嘘で、もともと最終出社日は9月30日だったのだけど、最後の仕事が終わらずにオフィスで誕生日を迎え、メールを送って午前6時に会社を出ていった(最後のタスクは、PE投資のパフォーマンス分解フレームワークづくりだった)。ユニゾンは最高の職場だった。仕事の仕方、特にガバナンスと資本構成の大切さを教えてくれた上司たちには心から感謝している。起業したあとも、ユニゾンの上司たちには本当にお世話になった。

32歳のときは色々と大変だった。ひとつめは、1,648km本州縦断ウルトラマラソン。僕はウルトラマラソンを走る人ではあるけど、速いランナーではない(僕の体型は格闘技に向いている)。何度か絶望しかけたことを今もよく覚えている。寒さと、強い雨(ときどき雪)と、全身の痛み、特にアキレス腱。完走したことによって鍛えられた堅忍不抜さは、起業後の困難を乗り越えることを助けてくれた。

ふたつめは、起業の初期チームの解散。僕のリーダーシップの弱さによるもの。この時期は結構苦しかった。その後の数カ月間は一人で事業計画を書き直していた。そのとき、事業モデルをPEファンドから現在の事業会社モデルに変えた。現在にいたるまでで、一番優れた意思決定の一つだったと思う。

そして、サンジェイと長島さんと起業をした。2014年7月4日。

起業後は時間が驚くほど早く過ぎていることに気づく。たくさんのことがあり、全て覚えているのだけれども、一つ一つのことに夢中だったので、夢中でやっているうちに時間が過ぎていった。

33歳の誕生日はカンボジアで迎えた。起業後1年はここに住んで、現地企業の経営改善に取り組んでいた。今になって思うと、この時期は五常を始めてから一番シンプルで平和な一年だった。実際のところ、時間が経てば経つほどに、物事は複雑で込み入ってくる。

34歳の頃のハイライトはファンドレイジングだった。この10年でスタートアップのためのエコシステムは大きくなったけれども、それは数多く存在するインターネットやテクノロジー企業のためのものであって、五常のような業態のためのものではなかった。スタートアップへの投資家が慣れ親しんだ物差しで評価するのが難しいので(今もそうだ)、機関投資家を探すのにとても苦労した。

それでも事業を成長させないといけなかったので、個人投資家からファンドレイジングをすることにして、菅井さんと一緒に全国行脚した。簡単ではなかったけども、個人のエンジェルから12億円を集めた。これも結果としては良い意思決定だったと思う。お陰でたくさんの人が応援団として株主になってくれたし、資本構成が圧倒的に安定するようになった。

この時期は悔しいことも多かった(例は出したくない)。「なんでこんな嫌な思いをしてまで、この仕事をしているんだろう」ということはよく思った。そのお陰で、この時期に僕は本当の起業家になったんだと思う。自分が何を欲しくて起業しているのかが分かり、思考が明晰になった。僕は世界中で機会の平等が少しでも改善するために人生をつかっているのであって、それ以外のことはどうでもよいのだな、ということに気づいた。

こういった努力のお陰で事業は成長し続けて、第一生命が最初の株主になった。35歳のときだ。そうしたら、他の機関投資家も株主になってくれた。そして、インドでの事業も始めた。

宇田さんが初代COOとして参画してくれたことで、組織は大きく変わった。そのときまで、五常には適切な組織構造やプロセスが存在しなかった。彼が来て以来、従業員の離職率が激減した。実際、宇田さんの後に入社した人で離職した人は極めて少なくなった(2年間ゼロだった)。

宇田さんはよく、「いまは五常・アンド・カンパニーでなくて、慎・アンド・カンパニーだ」と指摘していた。それは本当にその通りで、それは僕の未熟さのためだった。36歳になった僕が達成した一番の進歩は、自分が得意でないことを理解して、他人に頼ることだった。これも、僕が本物の起業家になり、自己万能感とかはどうでもいいと思うようになったからだと思う。そして、またすごい人たちが入ってくれるようになってきた。KoheiとTakaoが入ってきて、また会社のフェーズが変わった。37歳になった。

37歳と38歳のときはとにかくよく移動した。各国拠点を訪問する度に毎週一回は国際線に乗っていた。事業は成長を続けていた。ようやくCTOも入り、マイクロファイナンスへのテクノロジー実装の取り組みが始まった。もっと早くに始めたかったけれども、各拠点の当時のオペレーションの現状を考えると、経営改善が優先だった。

この時期に取締役になってくれたStuartからは多くのことを学んだ。改めて虚心坦懐に途上国の農村に暮らす人々の声に耳を傾けるようになり、マイクロクレジットだけで顧客の生活が変わるわけではないことを痛感した。顧客にとって本当に使いやすい金融サービスはどうあるべきかについて、改めて考え直すようになった。

39歳になったときはロンドンにいた。騒ぐロンドナーたちを見ながら、人間の本質はこのパンデミックによって変わらないのだと確信した。こんな状況でも事業はゆるやかに成長を続けた。いくつかのテクノロジーの取り組みも花開きだして、それはこれから18ヶ月でさらに加速すると思う。

そして40歳。いまは1ヶ月の長期休暇を取っている。少し前までは1ヶ月も休めるなんて考えてもいなかったけれども、今はそれでも問題がないくらいに組織が強くなった。自分より優れた仲間たちと仕事ができていて幸せだし、自分自身の役割も少しずつ変わってきている。

グループの顧客数は100万人、展開国数は5つになった。顧客の家族の人数でいうとだいたい500万人になり、福岡県やノルウェーの全人口と同じくらいだ。今のところ、マイクロファイナンス業界では歴史上最速で成長している(比較にはならないけど、グラミン銀行が顧客数100万人になるまでには17年がかかった)。目標を高く掲げているので未達感しかないのだけれども、進歩はしている。

創業時からの「2030年まで50カ国1億人」という目標は変わっていない。2021年から2026年で75%成長、その後50%成長をすれば達成できる。数字で測れる成長だけでなく、顧客にとって本当に役立つサービスもつくっていかないといけない。

40代の大まかな目標は次の通り。
1.民間セクターの世界銀行をつくる。
2.幸せな家庭をつくる。よい父であり夫になる。
3.柔術の黒帯をとる。海外の大学で何かを新しく学ぶ。

誰かが言ってたけど、少年の夢は夢見るためにあるけれども、大人の夢は実現するためにある。かっこいいオッサンになろう。

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