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分業と思いやり

市場経済における分業が、他者への配慮や持続可能性に悪影響をもたらしうる理由について、ようやく自分なりに言語化することができたので、ちょっと書いておく。


人間が行う経済活動は基本的に実物取引と金融取引からなっている。実物取引はモノを買う取引で、金融取引は投融資と考えたらいい。

実物取引においては、常に関係の最初と最後は人間と自然になる。誰かが自然から何かを取り出して、それを用いるからだ。自給自足は最もシンプルだ。

これが、一つの村の中になると、野菜の売買やおすそ分けのやり合いといったことが生まれてくる。

それがもっと大きくなると、市場経済における分業になる。世界中からいろいろな人がものを集めて、最終的な消費者に届くようになる。複雑な商品であったり、グローバルに取引されるものだったりすると、間に介在する人はどんどん多くなる。例えばコーヒー豆だったら、コーヒー農家、仲買人、輸出業者、輸入業者、小売店、消費者というように、多くの人が絡むようになる。


金融取引においては、取引の始点と終点は常に人間になる。

間に人が入ることもある。それは村の小さな信用組合とかがそうだ。

そして、大きな金融市場になると、間に入る人はとても多くなる。たとえば僕の仕事の場合、長いものであれば、年金加入者→年金基金→ファンド・オブ・ファンズ→投資ファンド→五常→五常の現地グループ会社→顧客、というようになる。そして、当然ながら大きな組織の中においては、その中でも大勢の人間が間に入る。

こういった分業はある程度の規模で行うと効率性を高めることが多いので、世界はどんどん分業がグローバルに進んできた。


そして、ここからが本題。

市場経済における分業は効率という観点からすれば望ましいのだけれども、間に入る人が増えれば増えるほど、その取引においては、市場経済内において評価されるもの、すなわちお金で測定できる経済合理性が重視されるようになり、その外にあるもの、たとえば人情とか長期的な持続可能性は無視されるようになる。あくまで肌感覚なのだけれども、関係者が4〜5になったあたりから、強烈にその傾向が加速する。

結果として、分業が進んだ経済において、他者への配慮(たとえば工場での人道的な労働環境の整備とか)や、持続可能性を実現するのは、人間の認知的にすごく難しくなる。

実際に思い当たる例をあげてみよう。

ラダックの村
  1. 先日訪問していたラダックの標高4000メートルの、人口1000人未満の村。山に囲まれた谷において、人々は僅かな土地と雪解け水だけを用いて持続可能な暮らしをしてきた。彼ら・彼女らがそうやって持続可能性を実現できた一因は、自分たちに割り当てられた自然資源が全て目に見える範囲内にしかなくて、それだけで生きていく他ないと認識しやすかったからだ。

    一方で、東京に生まれ育った僕は、自分に割り当てられた土地や水がどの程度なのか全く直感的に理解できない(調べたところ、僕に割り当てられる耕作可能土地は200平米、家庭用水は100㎥、農業用水は400㎥とのことだ)。なので、自分の経済活動が地球に対して与えている負荷や、誰かに与えている影響は想像できない。

  2. 創業から10年間、僕はずっとファンドレイジングをしてきたのだけれども、あくまで平均すると、人情が通りやすい順番というのは「自分で自由にできるお金を扱っている人」>「自分の顔で他人のお金を集めている人」>「誰かの誰かのお金を預かっている人」という感じになる。加えて、小さな組織のほうが大きな組織よりも融通がききやすい。

  3. これは、民主主義に対する信頼がある程度成立する人口が数百万人までということとも符号する話だと思う。人間が顔と名前がぱっと一致する人数はだいたい100〜250人といわれていて、仮に知り合いが重複しない場合(無理な想定だけど)、人口数百万人の国だと、ほとんどの人が「知り合いの知り合いの知り合い」になる。(150の3乗は300万))

  4. 起業する前に会社員として働いていたときの僕は、人情とかは無視して、合理的な意思決定をすることが楽だった。ファンドの厳しい決定を投資先の人に淡々と伝えることもできたし、アドバイザーとして経営者に対して合理的な意思決定を提案することも楽だった。起業してからは、ずいぶんとそれが難しくなったが、それは特に起業初期においては自分がそのまま会社と一体化していたからなんだろう。

  5. 農村の人より、大きな都市の人のほうがガメついのもそういうことなんだろうと思う。自然から引き剥がされて都市に暮らす人々は、必然的に農村に住む人よりも複雑な経済取引関係の中に生きている。

なので、今ほどに取引のサプライチェーンが長くなった現代において、何らかの介入をしないと、取引参加当事者に悪い意図がなくても、社会・環境への悪影響というのは避けがたい。弱い立場にある人や地球からの収奪は起き続ける。

それを仕組みとして是正する方法としては、こういった外部性といわれてきたものに経済的な価値を付与すること(排出権取引とかがそれ)と、サプライチェーンを短くすること(地産地消や産地直送を増やすこと、P2Pの金融取引を増やす)、サプライチェーン上にいる人々の様子をより見える化することなどが必要なんだろうと思う。これを真剣にやろうとすると、効率性はかなり失われるけれども、人類が種として詰むよりはずっといい。

それと、個人として行えることとしては、消費活動においても、サプライチェーンを短くすることなんだと思う。できるだけ、知っている人がつくっているものを買うということ。食べ物でも、服でも。逆に、人情とかを排除した意思決定をしなければいけない場合においては、誰かに代わりに立ってもらうのがよい。



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