20210210のお日記

かっこよく生きたいと思っています。


駅の近くに自転車をとめに行ったらすでにとめてある自転車たちに紙が付けられていました。この紙はその自転車が放置自転車かどうかを確かめるためのものです。次の確認の日にまだその紙が付いていたらそれが放置自転車である、と分かる代物なのですね。もう他の自転車につけられていたわけなので、私の自転車には関係のないものだったはずなのですが、バイトを終えて自転車を見るとカゴにその紙が入れられていて、紙を付けられた人が「いらね」と思ってそのへんの自転車のカゴに入れたんでしょうね。そしてその「そのへんの自転車」が私の自転車だったわけです。



もう、めっちゃあ~~~~~~~~~~って思った。すげえダル……って思った。私でなくていいところで選ばれた「私」って全然嬉しくないのな。正直隣の自転車のカゴに入れちゃおっかな~って思った、だってここの移動ってほぼ「無い」のと一緒だから。最初に紙を別の人のカゴに入れた人が私のじゃなくて私の隣の自転車のカゴに入れてたのと一緒だからね、起こった出来事としては。でも「かっこいい人」ってそんなことしないな、って思ったからそのままその紙を持って帰って捨てたんですけど。偉いね。


「かっこよさ」って「正しさ」なのかな。正しいことをしている人はかっこいいですか?かっこいいと思う。でもそれだったらメチャメチャ生きづらいなとも思う。私の「かっこよく生きたい」がイコールで「正しく生きたい」になってしまう、絶対にそういうわけではないから。でも正しいことってめっちゃ楽なんだよな。正しいことをしていれば、後ろ暗いことなんかなんもなくて胸を張って生きられるから。

ウソをつかなければそのままいればいいだけだし。色んなところで色んなウソつくと、「この人にはどんなウソをついていたっけ」と覚えておいて会話をする必要があって大変。正直にあることで、まあなにかしらの困難はあると思うけど。適当にはいはいっていっときゃいいところで変に突っかかっちゃったりとか。それでも、精神的には絶対に楽だよな。


そんな楽していいのか~とも思う。人格何個あるんだよ。楽してるってズル?いやそんなわけないな。「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土にいけるって言われてもそれは苦労を伴わないから、結局厳しい修行しちゃうみたいな感じ。私は南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土に行けるなら修行なんかしません。苦労して極楽浄土に行った人と苦労せず極楽浄土に行った人は「極楽浄土楽しめ度」が違うんだろうか。たぶん極楽浄土がそんなに楽しくなくても、苦労していった人はその苦労に見合うだけ楽しもうとするんだろうな。


ごめん、何の話だっけ。例から脱線してしまった。私は話初めの前口上として使われる「全然関係ないんだけど」がすごく好きです。なぜなら、全然関係ない話がすきなので。「閑話休題」とかも「休題すな~~~~~~~!!!!」と思ってる。また閑話するなよ。


どう考えても楽して生きてえ~~って話でしたね。楽して生きること、悪なわけない。飽きるまで正直者として生きようかな。


カッコいい剣とか買いたいです