ニヒリズムを惟う


 感情的確信を持たない論理は、不感症の肉塊のようなものだ。

 ニヒリズムは我々に何も語らない。それは先祖の建てた墓石のように、はじめからそこに在り、きっとこれからも在り続ける寡黙な冷たい塊である。「きっとこれからも在り続ける......」、という、この確信には、何らの感情的要素も与らない。よしんばあっても、それは子孫長久とかいう熟字で言表されようが、ともあれ墓場とは別の場所に建つべき理想である。御影石の組織の強固さだけが、科学的と呼ぶに足る経験知を以って我々の持つ事典の裏付けとなり、また、我々の確信をもその事典中に裏書きしているのに過ぎない。

 自然科学からの言質は、複雑に入り組んだ現象の綾から、その綻びから、いかさま語るに落ちるの仕草で零された内証のようなものである。内証と言うからにはそれは我々に知られる前から予め自然界に胚胎されていなければならぬ。しかもその内証は、宇宙の劫初から用意され、勿体ぶった表情を堅く閉じた口許に浮かべつつ、しかしながら大概が単純明快な(一見して取るに足らぬ)論理なのである。ニヒリストの信仰の根拠は、この論理の明快さも然ることながら、論理自体の持つ明快さもこれに含んでいる。彼らは思想的深度を、ある真理の真実性の尺度に用いない。彼らにとって真理とは、左辺から右辺へ速やかに導かれるものでなければならない。計算が自明的であれば、論理は機械的にニヒリズムを導出するであろう。なんとなれば、自明的であるとは、論理によって語られる場合にそれが自明的であるのであって、論理的であることを世界に要請するその端から、入れ子のように世界の自明性を問うからである。故にこそ、ニヒリズムが科学を前に膝を屈することはない。現代に於けるニヒリズムの思想的背景が、科学主義を母体にしていることを見てそう言うのではない。ニヒリズムの世界解釈が、科学主義の世界観を侵食する形でそれと癒着し、その原理をすら相同じうしているのを見て、そう言うのである。科学主義とは、その金科玉条を顧みれば、神に代わって世界に遍く行き渡らなければならないのだから、相互発火する論理は光の速さを超えて、宇宙の果てにまで、ニヒリズムを運んで行くはずなのだ。

 ニヒリズムとは科学主義の寄生虫であり、その宿主を不感症の肉塊にしている。

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