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バーマン『デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化 -』覚書き part 2

モリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化 -』読了。ベイトソンに関する考察はこれから読む予定のベイトソンの『精神の生態学へ』の覚書きに譲ることとして、読んでいて想起したいくつかのことをメモに残す。

特に面白かったのが、デカルト以降の近代が生み出した、世界と分離した、世界を観察し支配するものとしての「私」の限界に関する記述。すでにユングは、意識の中心に位置する「自我」から、無意識まで含めた人間存在全体の中心に位置する「自己」への移行の重要性を指摘していた。ベイトソンはさらに進め、主体と環境が織りなす生態系の一部として主体を再定義する。おそらくそこにおいて、近代的な自我の枠組みは溶け去り、世界と一体化した体験があらわれる。それは、鈴木大拙や西田幾多郎が提唱した経験とも近接するのかもしれない。あるいは、そこからオブジェクト指向オントロジーまでの距離もそう遠くはないだろう。いずれにしても問題は、いかにして主体を溶かすか、ということにある。

こう考えたとき、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してからちょうど100年目を迎える今年、新たなシュルレアリスム宣言が発表されなければならない。フロイトの強い影響を受けて生まれたシュルレアリスムは、分節言語によっては表象不可能な人間の無意識に形を与える試みの一つとして、自動記述という実験を繰り返す。自動記述とは、分節言語によって形成される意識の支配を可能な限り排除した形で行われる記述方法である。具体的には、書く内容をあらかじめ決めないままにかなりのスピードで記述をしていくこと。詳細は巖谷國士の『シュルレアリスムとは何か』を参照。

巖谷によると、自動記述において書くスピードを徹底的に上げたとき、そこにオブジェの世界があらわれる。

さて、書くスピードをもっともっと速くするとどうなるかといえば、「私」がいなくなって、「だれか」が出てくる。「だれか」が「私」のことを書いているような状態になります。これはもしかするとある種の神がかりに近いのかもしれない。(中略)
ランボーのいう「オン・ム・パンス」、つまり「だれか」が自分を通じて考えているとか、「だれか」が自分を通じて書いているという体験がここにもあります。これは体験的・身体的な問題ですから、出所についてはやはり自分のなかにあるとしかいえないわけですが。
「自動記述」の場合、さらにこれが抜けちゃって、主語や現在からも離れてしまうことがある。(中略)現在の先はどこかというと、動詞のない世界に入る。つまり、過去でも未来でもなく、物と物、概念と概念がただ脈略なく併置されている状態なわけで、いわば無秩序なオブジェ世界です。(中略)
「自動記述」の実験で分かってきたことは、どうやら物を書くことをそのスピードに応じて段階化してゆくと、最終的には自分が書くというところから、「だれか」が自分を書くとか、「だれか」によって自分が書かれるとかいう状態に行く。書かれたものは主語や動詞がだんだんなくなっていゆく。主語があって、動詞があって、それらに統御された客観物としての目的語や補語があるというような、いわゆる文章の通常の構文ではなくて、大方がオブジェすなわち客体であるような、つまり客観的な世界です。「客観的」という言葉はフランス語や英語では「オブジェクティフ」や「オブジェクティヴ」ですけれど、同時に「オブジェの」ということで、オブジェの世界イコール客観的な世界でしょう。

『シュルレアリスムとは何か』(巖谷國士著)

ランボーの言う"On me pense"(誰かが私を考える)。フランス語の不定代名詞"on"は、特定の誰かではない「誰か」をあらわすときに用いられる。「私」が主語ではなく目的語に代わるとき、「私」が世界を生み出す創造者から世界に遍在するオブジェの一つへと変容するとき、シュルレアリスム(超現実)は現出する。このような自己の溶解、あるいは自己のオブジェ化をコンピューターと接続すると、落合陽一の言うデジタルネイチャーにも近づくのではないか。たとえば、広大なオブジェの海としてのLLM(Large Language Model)。

いずれにせよ、社会生活を崩壊させないようにしながらいかにして主体を溶かすのか、あるいはそのようなシステムを構築できるのか、ということが問題となる。

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