浅田彰『逃走論~スキゾ・キッズの冒険』

『逃走論』は、浅田彰による<家出のすすめ(寺山修司)>である。冒頭、浅田彰は「逃走する文明」という挑発的なエッセイを書いている。そこで、「<パラノ人間>から<スキゾ人間>へ、<住む文明>から<逃げる文明>へ」とアジテーションを展開するのだが、彼の言う<逃走>とは決まりきった固定観念から逸脱することであり、これは寺山の言う<家出>と共通項を持っている。
ちなみに、浅田は「逃走を続けながら機敏に遊撃をくりかえす」といっており、彼の<逃走>は、<闘争>の一形態であることがわかる。
ただ、浅田彰においては、身体性や土着性といった過去へのノスタルジーがないのであり、彼の志向は未来だけに向いているのである。
浅田彰は、『逃走論』を1984年3月に上梓し、同年6月に『GS・たのしい知識』の創刊に、編集委員として関わる。この雑誌に載せられている「『GS・たのしい知識』刊行について」によると、<たのしい知識>の由来は、十二世紀のトルバドールの作詩術la gaya scienzaと、フリードリヒ・ニーチェの警句集『悦ばしき知識』とジャン=リュック・ゴダールの五月革命直後の映画「楽しい知識」によるということだが、『逃走論』に収録されている「ゲイ・サイエンス」は、さらにもうひとつの意味合いを示唆している。すなわち、固定的な性役割から自由なトランスセクシュアリティの考え方である。
本書の主要部分は、<逃走>概念を打ち出したドゥルーズ=ガタリと、彼らの思想の源流であるマルクスをテーマなされた浅田を含む討議となっている。討議とはいっても、これをもとに論文を数本書けるほどのデータ量である。
ドゥルーズ=ガタリは、ポスト構造主義の立場にあり、これは構造主義→記号論の後に続くものであるが、もうひとつ、エピクロス→スピノザ→マルクス→アルチュセールという唯物論の系譜にも繋がる考え方をしているのである。
ドゥルーズ=ガタリは、抑圧的国家装置に対しては革命的戦争機械を、モナドロジー(単子論)的予定調和のヴィジョンに対しては、ノマドロジー(遊牧論)的逃走線を引こうとする。また、ミクロの権力をも射程におさめ、分子革命のヴィジョンを打ち出す。浅田の『逃走論』は、こうしたドゥルーズ=ガタリの<闘争>の延長戦にある考え方なのである。
本書の後半部では、浅田の学問的バックボーンをうかがわせる書物の紹介と、書評が載せられている。浅田は、テクストの神聖視や権威付けには反対する一方で、構造主義→記号論→ポスト構造主義という思想史を押さえ、現代の様々な抑圧からの<逃走>のための視線を鍛えることを薦めるのである。
『逃走論』と、同時期に刊行された思想誌『GS・たのしい知識』には、深い相関関係がある。『GS・たのしい知識』は、膨大な原稿量の雑誌である。(4号の戦争機械特集号に到っては、712ページもある。)
読者は、この膨大なテクストの中から、必要な道具=武器を探し出し、各人の闘いのために利用せよ、ということなのである。
本書のメッセージをひとことで表現すると、こうなる。
<勝手に逃げろ(ゴダール)>

初出 mixiレビュー 2005年06月29日 20:30

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