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蕎麦職人

その男性は蕎麦屋を営んでいたらしい。

紙屋町の ね、
交差点の ところ

人 を 雇ってね、
何十席も あった。

紙屋町!
広島の真ん中ですね。
繁盛されて
お忙しかったでしょう?

いろんな 客 が来た
有名な 野球選手 が 
来たことも あった
名前は…

長い時間をかけてそこまで言うと、少し笑ってから
哀しそうな表情を浮かべうつむいた。

…名前は…

…いいですよ、
思い出したら教えてください。
大きなお店で
お蕎麦を作っていらしたんですね。

それじゃお料理には一言おありじゃないですか?

まあね…

こちらのご飯はお口に合いますか?

こう尋ねると、少し身を乗り出して

うまいよ、
この間 から、
一週間くらい 前に
急に 味が 変わって
うまくなった。

一週間くらい前ですか
最近ですね。
おいしくなってよかったですね。

にっこり笑ってうなづいた。

男性は市内で蕎麦職人の修行をして
広島にでて店を構えた。
蕎麦打ち一筋の律儀な人柄だった。
五十代で引退して郷里に戻った後脳梗塞で倒れ
認知症を発症、高次機能障害となった。
軽い失語症はそのためだ。

思うように言葉を発せられないもどかしさに
苛立つ風でもなく
少し苦笑いして諦めてしまう。

それを何度も繰り返すのは
申し訳ないように感じるが
話をするのを嫌がってはいない。
目が微笑んでいる。

その先、何を話したいのか…

察して先回りしたくなるが
黙って言葉が出てくるのを待つ。

しばらくしたら
さっきのことはなかったように
別の話を振ってみる。

そんな途切れ途切れの会話から
「今の思い」を探り出す。

若い相談員に報告する。

一週間くらい前に、食事の味が変わったとおっしゃっていました。
なにか体の変調があったのですか?

風邪をひいたとか、逆にそれまで有ったなんらかの痛みや憂鬱が消えたとか…


ちょうど一週間前に、管理栄養士が変わりメニューが変わったんですよ。
利用者さんには朝礼でお伝えしてはいましたが、
個別に話したことはありません。
そんなことをおっしゃっていましたか!

さすがの蕎麦職人なのである。





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