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「黒田杏子さんを偲ぶ会」

令和5年9月17日(日)、千代田区一ツ橋の「如水会館」で、「藍生俳句会」として最後の活動になる「黒田杏子さんを偲ぶ会」が開かれましたので、出席してきました。

黒田先生が急逝されたのは今年3月。もう半年が経つのでした。
そして、私の上京も久しぶりです。

会場は、「如水会館」二階のスターホール。プライバシー保護の観点から、人が写り込んだ写真は割愛しますが、大勢の出席者がありました。たぶんですが、二百人以上おられたでしょう。

「偲ぶ」とは、静かに胸のなかに思うのであって、それ以上でも以下でもありません。まことにふさわしい言葉だと思います。

出席された一人一人に、黒田先生との出会いや、吟行、句座など、数々の思い出があることでしょう。むろんお互いなつかしい顔もあって、中学校の同窓会のようにも思いました。

さて、ここにスタッフから配られた一枚のペーパーがあります。言葉が出てきませんので、そこから少し抜粋したいと思います。

(事務局前文)
四十三歳の黒田杏子が「毎日新聞」に執筆した文章を紹介します。掲載日は昭和五十六(1981)年九月二十五日。第一句集「木の椅子」を出版してまだ三ヶ月しかたっていません。
このときの肩書きは−−−
  博報堂「広告」編集部勤務。「夏草」同人。
  句集に「木の椅子」がある。「紅粉花(べに)の会」世話人。
ダブル受賞の知らせは、この記事の数ヶ月後、翌年の春になります。「藍生」の結成は、さらに九年後です。
早い時期からの志の深さを、改めて偲びます。

(毎日新聞記事)
どうして俳句なんかいまごろ作るのですか、と聞かれると、「申し訳ありません」「好きなので」と答えてきた。いや、こういう質問を他人から浴びないで過ごせるように、俳句に賭けていることを俳句仲間以外のところには明らかにしないで年月を重ねてきた。
しかし、俳句を通して私はどれだけ得がたい連衆を得たことか。力を得たことか。
ひとりで俳句を作ることはできる。しかし、俳句は決してひとりだけで完成させることは出来ない不思議な運命をもった一行詩である。こころを俳句に変えるために、人は句座をもつ。自分のこころを句座にきて、連衆の胸に映そうとする。(中略)

句会ほど平等の時間はない。無署名の作品が清記されて句座を回りはじめるとき、作者はもう一度、自分の投句した作品にめぐり合う。この時、はじめて作者は自分自身のこころのかたちが、他者の句の中に立ちまじって生きているさまをつぶさに、距離を置いてながめることができる。他人の中の自分の姿に邂逅(かいこう)する。自分を発見する。

私は山口青邨先生の「夏草」で勉強しているけれど、その中でたくさんの句座、勉強句会に参加している。男も女も、年齢も、肩書も一切を超えて句座では平等である。作品が絆(きずな)である。自分自身を知るために、自分自身を発見するために私は俳句を作っている。俳句を作ることは即、自分のこころに出合うことであり、句会で仲間にくまなく映し出される自分を体験することは、なにものにもかえがたい歓びである。


秋風や轍を遺す車椅子
ひかり合ふ生贄の夜の囮鮎
手袋にことしの指を深くさす    杏子

昭和五十六年、私は黒田先生のことをまだ知りません。先生に邂逅し、その俳句教室(朝日カルチャーセンター)に学ぶようになるのは、私が東京へ出稼ぎ(転勤)に出てからのことになります。平成に入ってからのことですね。数年の勤務を終えた私はまた関西に舞い戻るのですが。

黒田先生のご著書。まだまだある。

あの頃、俳句教室の先生は、最初にまず三つの約束を提唱されました。

①真面目にやる

②急がば回れ

③志を高く

アソビ半分で入った俳句教室。びっくりです、この三つの約束には。
しかし、このことが、これからも忘れずにいたいと思えるほどに歳月が経ちました。

「偲ぶ会」当日の夜は某ホテルに宿泊いたしました。

翌朝、虹が立つのを見ました。

この虹はなにかの予兆なのか? そこはわかりません。わかりませんので、わかるまでこの虹を追っていくことになるのかなあ。そんな予感しています。

このブログで「黒田杏子俳句を読む」をスタートしたいと思います。何年かかるでしょうか。終わりなき旅です(笑)
これは自分のために書くものでありますが、一人でも読んでいただければ嬉しいことです。


2023.10.1記