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前登志夫歌碑/赤岩渓谷(奈良県黒滝村)

洞川の山上川が、太平洋に注ぐ新宮川水系であるのにたいし、黒滝村を東西に西流する黒滝川は、下って丹生川、紀ノ川となり紀伊水道へ注ぐ紀ノ川水系です。小南峠が、この二水系の分水嶺だったのですね。(前回記事)

その黒滝川沿いの、これまた狭小な県道138号線を、東へ行くと「赤滝」というところで行き止まりになります(終点or起点)。

その先は、たぶん歩きだけの山道となり、てっぺんの山が大峰奥駆道となるのでしょう。赤滝は、それほどの山奥の地です。

この「赤滝」に「きららの森・赤岩」があります。バンガローやコテージ、バーベキュウなどに遊ぶことが出来るようですが、私の興味の対象は「赤岩」です。


「きららの森・赤岩」


[赤岩渓谷]


赤岩は、「きららの森」のすぐ下流の渓谷で、その川床一帯に赤い岩が見られます。

(本記事の最後の方で、そこで思いがけず遭遇した、「前登志夫歌碑」をご紹介します。ぜひ、見ていって下さい。赤岩記事はスルーでかまいません)


「きららの森」の駐車場から赤岩渓谷への遊歩道
渓谷には大峰山上ヶ岳に生まれた清い水が流れる
川床に赤い岩が見えてきました
川床の岩は、はっきり堆積したもの(層状)であることがわかります
この岩は水に濡れると、赤みが増すそうです。「赤岩」の由来ですね
チャートというらし。赤いのは酸化鉄鉱物に起因するとか



チャートは放散虫などの生物が海底に降り積もって岩石化したもので、地球のプレート運動によって大陸側に運ばれてきた(付加体)という。日本列島では普通に見られる岩石、地層らしいです。

色は、基本白色だが、含まれる鉱物によってバリエーションが多いという。
ここ赤岩では、赤鉄鉱(酸化鉄鉱物)をおおくふくむので「赤色」になったということです。

いずれにしても、海底の堆積物が紀伊半島の奥地の渓谷に見られるということです。なんと、ダイナミックなことか!!


チャートは、もぐりこむプレートにへばりついてきた付加体であるそうな
層ごとに少し色が違いますね。悠久の時の刻みを見る思いです


地層に揉まれた跡?
水に濡れない岩は白色です(苔も生えとる)
赤岩を初めて見た古代人もさぞビックリしたことでしょう。血の色…
パワースポット
何かがいそうな気がする
動画でないのが残念だ!
こうして赤岩渓谷 満喫しました



[前登志夫]

さて、おもいがけず赤岩渓谷の遊歩道で「前登志夫歌碑」に遭遇しました。
木下闇にひっそり佇みて。

「恋ほしめば」


赤岩の歌

みなそこに
赤岩敷ける
恋ひほしめば
丹生川上に
注ぎゆく水

「丹生川上」:黒滝川は、下って大和丹生(にう)川となり、紀ノ川に合流します。「丹生」は水銀原料や顔料、不老薬として使われた鉱物だという。


ものみなは
われより遠し
みなそこに
岩炎ゆるみゆ
雪の来るまへ

前登志夫


「ものみなはわれより遠し」


前登志夫
戦後まもなく詩作を始め、フランスやドイツの詩を学ぶ一方、柳田國男や折口信夫の民俗学にも傾倒。昭和26年に吉野に戻る。昭和31年、詩集『宇宙駅』を刊行。やがて短歌に転じる。昭和55年に歌誌『ヤママユ』創刊。吉野に住み林業に従事しながら、活動を展開。アミニズム的な宇宙観・生命観を表現した短歌を詠み続けた。歌集のほかに、吉野をテーマとしたエッセイ集も多数執筆。平成17年、日本芸術院会員。短歌結社「山繭の会」主宰。平成20年死去。(ウィキペディア要約)


前登志夫氏に引率(講師)されて吉野山を歩いたことがあります。この歌人はお土産店のホラ貝(商品)を手に取って思いきり鳴らしてみせたり、また昼食会場(旅館)ではひとり酒を飲まれました。豪放磊落な印象です


『大空の干瀬』には好きな歌がいっぱいつまってますが、いくつかご紹介します。

けだものの餓ゑをおもひて山の雪ふりはじめたる時間をあゆむ

渋柿の甘くなりゆく冬の日の山の静けさわれのしづけさ

用のなき暮しをなせど週末はすこし疲れて山を見てをり

惚くるまでこの無念さは消えざるか消えざるものをいとしまざらめや

恥ふかきひとよなりしか三十一文字に溺れし山人の塚


2024.6.5
(2024.6.8記)