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太子道3 筋違道を歩く②


昨日のブログで、筋違道(太子道)のほんのさわりだけ書きました。今日もそれにちょっと毛が生えた程度ですが、見栄えスポットをいくつか紹介します。

ここであらためて「太子道」とは?ですが、、、
「聖徳太子が愛馬の黒駒に乗り従者調子麿(ちょうしまろ)を従え、斑鳩宮から飛鳥の小墾田(おはりだ)宮へ通われた道を「太子道」と呼んでいる。(現地説明版抜粋)」ということでした。

この太子道を、1400年後、ひとりのおっさんが歩いたのは、奈良県川西町から三宅町屏風(びょうぶ)を経て田原本町宮古(みやこ)に至るおおよそ4kmほどです。この区間が一番素敵らしいです。

さて、三宅町の現場です。
屏風(びょうぶ)の白山神社。ここに太子銅像があります。

「太子を偲び昭和5年この地に聖徳太子が愛馬黒駒にまたがり、屏風を往来される像「黒駒に乗る太子銅像」が建立された。銅像は第二次世界大戦中、金属類の献納でとりはずされ、台座だけが残されている。」(同抜粋要約)

なるほどね。
今見る「黒駒に乗る太子像」は戦後再建されたのですね。

「屏風」という地名ですが、村人が太子をもてなすとき屏風をたてて風を防いだことから名づけられたと伝えられています。(同抜粋要約)

なんじゃろ?この石。
それは太子が休憩されたという「腰掛石」でありました。

このような腰掛石は、偉人ゆかりの地に結構作られてるよね、と言ってしまえばそれまで。ちょっと立ち止まって想像してみましょう。

誰でも疲れたら休憩し、休むときは何かに腰掛けますね。

太子だって休むことはあったでしょう。そのとき、村人は接待したに違いない。太子に近づけなかったとしても、そうしたいと思ったことでしょう。腰掛け石はその思いを忘れないための記念碑だと思います。←個人的見解

ここから現場は田原本町になります。

孝霊天皇黒田廬戸(いほど)宮跡に建立された法楽寺。聖徳太子開基だそうです。

第7代孝霊天皇は、桃太郎のモデルとされる吉備津彦の父であることから、ここが「桃太郎伝説発祥の地」とされているということです。ふうん、ですが…しかし、、、

確かにこの地は寺川と飛鳥川に挟まれており、なので、現場に立つと、どんぶりこどんぶりこに信憑性があります。

太子道の見どころは、ほかにもいっぱいあるのですが、このブログの字数がつきそうですので、涙を飲んで割愛します。←ほんまか?

以下はおまけです。聖徳太子から少し離れて、へえーそーなんだ、という箇所を紹介します。

「忍性菩薩」はこの地、屏風で誕生されました。

忍性菩薩は、鎌倉時代の律僧で、民衆救済に生涯を捧げ、貧窮民への施設、療養所・浴室の開設、架橋・造路・堀井などの社会福祉活動に多大な業績を残された方です。(同抜粋)

こちらは「木抱かれ地蔵」さんです。

今は木に抱かれておりません。独立されました(笑)

こうして半日かけて、太子道の一部ですが歩いてみた全体の印象として、なんだかほっとする、でした。景色も空気も、道行く人の気さくさも、どこかなつかしい感じしました。

と、ところがですね。ここへ来て、大変なことがわかりました。太子道は筋違い道だけではないのです!

というのは、文献あさりするなかで、法隆寺から西(大阪方面)の磯長、難波へ、そして平群谷(法隆寺の北方向)に伸びる道も、太子信仰の道であり、太子道と呼ばるると判明したのです。えらいこっちゃ!

…というわけで、この太子道シリーズに終わりは見えず、今しばらくは漂流を楽しむことといたします。「続く」って意味ですが、さて、いつになることか。

(歩いた日:2023.5.5)