広島平和記念資料館がすごいって話

こんにちは。
タイトル通り広島平和記念資料館について語っていこうと思います。是非足を運んでほしいという願いからできるだけキャッチーに分かりやすく書こうと思っていましたが、いざ書き始めるとマニアックな内容になってしまったので振り切ってキャッチー路線は捨てました。多少分かりづらいかと思いますが、お暇ならお読みください。また全て私の考え方、感じ方なので悪しからず。

それでは前置きはさておき本編へ。



平和公園を歩く人々は様々です。
原爆ドームの前で、「戦争をしていたからこんな風に建物壊れちゃったんだよ」と子供に教えるお母さん
世界情勢について話ながら歩く大学生
「○○年ぶりにきた!」と懐かしさを噛み締める社会人
公園でのんびりする人、楽しそうに犬の散歩をする人

平和公園という空間が戦争や平和を語る場となっている事がよく伺えます。その一方で日常生活を送る人々もいます。春になり平和公園でお花見をする人を非難する声もありますが、私は平和公園が平和公園となるまでの空間を彷彿させる光景だなあと、微笑ましく思うのです。

現在平和公園がある一帯は、そう呼ばれるようになる前、中島地区と呼ばれていました。住宅や商店など、人の往来が盛んで原爆ドーム(当時はモダンな建物、産業奨励館)近辺は人々が集まる憩いの場でした。平和公園へと姿を変えた今でも人が集う空間である事は、今も昔も変わらないこの土地の魅力を感じさせます。

前座はさておき、資料館の話に入りましょう。

まずはこれまでの資料館の経緯から。

現在の資料館は2019にリニューアルされたものですが、1955年の開館以来展示の趣旨は変動を重ねてきました。設立当初50年代は原子力の平和利用に主眼が置かれていました。今からすると少し意外かもしれません。当時の資料館は原子力エネルギーの一大博物館を志しており、58年に催された広島復興大博覧会では、原子力科学館として展示を行っていました。


その方向性が現在にも通じる原子爆弾の悲惨さへとシフトしたのは60年代になってからです。これは日本社会における原子力平和利用熱が衰退したことが背景として挙げられます。69年ごろから高まった原水爆禁止運動に先立ち、原子力に関する展示が行われたこともありますが、チェルノブイリや福島の原発事故が起こった際もそれに関連した展示が特設される事がなかった事は、時と共に原子力を主眼としたものから原爆の悲惨さへとテーマがグラデーション移行していることが伺えます。

2019年のリニューアルの際には、被曝直後の被爆者を再現した被曝蝋人形の撤去が大きな議論を呼びましたね。リアルを忠実に伝えるツールとして蝋人形を評価し、それが撤去されるという事は被曝の惨状を伝えれないとの議論です。館長のインタビューで被曝蝋人形という存在が資料館を象徴する大きな存在となっている事に驚いたと話されておられましたが、その言葉が表す通りリニューアル前の資料館は「当時の“リアルな”惨状」にスポットを当てたものだった(そうあるように期待された)ように個人的には思います。

そして2019年のリニューアル後。
今の資料館のテーマは「きのこ雲の下の人々と彼らのストーリー」だと私は感じています。すなわち個々への着目と物語性の強調。これは広島平和記念資料館にとっても新しいものであるように思いますし、他の戦争関連の資料館でも珍しいものであるように感じます。ひめゆりや特攻関連の資料館は、そこに居た人々に着眼を置いた展示が行われているように思いますが、広島はその要素に物語性(これには個人のみならず広島という町も含みます)を付属させたように感じます。


この物語性は、来館者の共感を呼ぶことを目的とされているように思います。共感は近年の戦争映画の特徴でもありますが、体験者との関わりが少ない非体験者が増加しているため、彼らの日常との接点を生むことで、共感を呼び、戦争を理解してもらおうとする手法ですね。
“家族”とか”愛“とかそういった言葉がキーです。



まあそんなことを言っても、行ったことのない方は???だと思うので、もう少し詳しく書きます。資料館の展示構造はざっと以下のようなものです。

①被曝前の広島の町の様子の写真(来訪者が写真に囲まれ当時の町の中にいるように感じさせる展示方法
②時計と1945.8.6 8:15の表示
③投下直後の広島の街の様子(①と同様の展示方法)
④瓦礫や変形したビンなど物的資料
⑤被曝した人々の写真や絵
⑥個人の写真と遺品(投下から死までの様子を明記した説明書き付き)
⑦戦後の生活(後遺症や差別など)
⑧平和公園を一望できる場所
⑨核兵器史
広島に原爆が投下された背景や経緯(マンハッタン計画から)、原子爆弾の開発、戦後の軍拡競争、軍縮への動きなど
⑩戦後の広島の復興

ざっと説明するとは、といった感じですが、見て分かる通りてんこ盛りなんですよ。全部ちゃんと見ようと思えば1日かかります。大体⑧あたりでいっぱいいっぱいになって⑨や⑩はほとんど見られていないような気がしますね。文字での説明板がメインなのでその影響もあるかと思いますが。

来訪者は①から⑩を順番通りに回っていきます。資料館によっては順路を明確に提示しないものもありますが(知覧とかそうだった印象があります)、完全に順路通りに回ることになる構造をしています。私が広島に精通しているからかもしれませんが、これほどまでに製作者の意図を感じる資料館はなかなかないです。

今の資料館がリニューアルするに至った要因をしっかり調べたわけではないのでこの点については私の推測ですが、核廃絶に向けた動きに人道ムーブメントが盛り上がってきたことが背景としてあるのでしょうか。あとは被爆者の高齢化と被爆者無き社会を想定しているのでしょうね。その部分を個々への着目という形で、以前より強調した展示になったように思います。わかりやすい部分で言うと、⑥の部分ですね。以前は遺品を展示するのみでしたが、その遺品にどのようなエピソードがあるのか、どんな持ち主でどんな経験をしたのかが分かりやすく展示されるようになったと思います。
特記すべきは”遺族からの“コメントという形でエピソードを掲載していることです。共感という仕組み、それにおいて“家族”というキーワードの重要性について先述しましたが、具体的にはそのような形で設置されています。

資料館に新しく提供された資料を展示する新設展示ブース(地下一階無料で入れる区画)も以前は、ただ遺品の寄贈先の名前と遺品が展示してあるのみでしたが、⑥と同様の形式で展示されています。(正直以前の新設展示ブースにかける労力や意欲といったものはあまり伺えない展示だったように思っていたのでかなりおどろきました。作り手の本気を感じます。)先に述べた個々の要素の導入とは上記のような事を意味します。


次にストーリー性についてですが、先にも述べましたが、近年の資料館の主眼は原爆の悲惨さであり、その意味で今の資料館は①〜⑧までの強いストーリー展開があるように思います。全体的な観点で言うと被曝の惨状から核問題、現在の広島のミッションといった話の展開であると思いますが、ここで私が言いたいのはそういう全体的な話ではなく、原爆の悲惨を理解させるために作られた展示①〜⑧のストーリー性です。

資料館はまず場面状況を理解させます。①から③の流れを用い、広島という空間に来場者をおき、変わってしまった町の姿を一人称視点で”体感させる“。この疑似体験によってヒロシマという空間を想像しやすくしているのでしょう。その後④の物的展示を用いて、来館者が自分の中に作り上げた空間を、よりリアルにする。個人的には、資料館の趣旨を提供するまでの前座がここまでだと思っています。

そして空間に人を配置していきます。(⑤)来場者の動きを見ると多くの人が立ち止まるのは人に関する展示コーナーです。人だかりは④のような瓦礫等の展示ブースには比較的できにくく、⑤のような人の状況をリアルに映し出すものに発生するような気がします。資料館内には当時の映像資料も展示されていますが、町の様子を映し出した映像と人が映し出された映像では注目度が全く異なっているように思います。


少し話は逸脱しますが、ここに戦争関連の資料館の難しさがあるように思います。そもそもの資料館の役割として資料の保存があります。しかしながらその資料を展示するのみでは来場者はさほど大きな関心も感想も残しにくい。京都の舞鶴引揚記念館(シベリア抑留関連)に伺った際に、抑留生活をなさっていた方の所持品などが飾られていました。ドイツ製のケースが展示されており私は一目しただけで通りすぎてしまいましたが、その後館内ガイドさんとお話ししている際に、その展示物を指し、抑留していた人々は日本人だけではないこと、日本人とドイツ人間で交流があった痕跡としての説明を受けました。つまり何が言いたいのかというと、物のみの展示は伝わりにくさがあるということです。その物が何を意味するのか、伝わりにくいため、記憶に残りづらい。皆さんの中にも博物館などにいき、資料を見ても古いなあという感想しか浮かばなかった経験はないでしょうか。一方で白樺日誌の原本の展示には興奮した事を覚えています。つまり物的展示は、ある程度の知識があれば来客者に入って来やすいということです。戦争関連の知識が提供されることは比較的多くないでしょう。はじめて触れますという来場者も多い中で、物のみの展示のみでは効力を持ちにくいように思います。
じゃあ広島のように個々の要素を入れろとかそういう訳にもいかないですよね。かなり労力、資金のかかる作業でありますし。物と簡単な説明のみを置くのみにならざるを得ない仕方ない状況があるように思います。資料の保管のみならず、時代への継承を掲げる戦争関連の資料館だからこその展示の難しさがあると思います。


脱線しすぎました。
来場者に広島という空間を疑似体験させる事で空間を作り出し、物を置き、人を置いたというところまで書きましたね。

その後、人をピックアップしていきます。先程配置した人の詳細に迫ります。来場者の啜り泣く声が響き始めるのもこの辺りです。投下時の苦しみ(⑥)、投下後の苦しみ(⑦)を個別的に理解させます。遺品とその持ち主の顔写真、彼らのエピソードを個別に紹介することで、空間に配置した人の輪郭を描いていきます。後遺症と貧困に苦しむとある一家の戦後の物語「N家の崩壊」コーナーは多くの人の目を引きます。その後、平和公園が一望できる空間へと出て、現在への変化を体感させて終了です。

広島のメッセージを上手に伝える上で、どう記憶に残すかという工夫が非常に巧みに施されていると思います。
資料館の展示方法として一般的なものは経緯に添い時系列に沿って紹介していくものだと思います。それに準じれば、核兵器の開発、投下理由→原爆の惨状→その後の生活といった、「前→あの時→後」といった流れでも十分に思えますが、「前」に該当する部分の詳細を後ろに持ってきて、背景説明なしでメインテーマを持ってきたというその構造が非常に面白い。そういう構造にした部分にヒロシマらしさを感じます。このヒロシマらしさについて書き始めると流石に長すぎるので書きませんので、是非訪れてみて感じてみてください。

ヒロシマっぽいなあと思ったもう一つの要素が照明の暗さです。あれほどまでに暗い資料館は他に知りません。投下前や復興については背景が白ベースに、投下後は黒ベースであると言う色の使い方も含め、ストーリーを作る上での効果も工夫されており、その使われ方一つ一つにヒロシマらしいメッセージが包容されているような気がします。

このような展示は来館者にどう影響しているのでしょうか。資料館には感想を書き記す交流ノートが設置されているのですが、そこでのコメントを見る限り(ここは特に主観です)リニューアル後は特に、戦争への嫌悪感が特化しているように思います。原爆への嫌悪感も同様のあるように思いますが、現在の核兵器に関するコメントは随分減ったように感じます。「核なき世界を願います」というフレーズが溢れていたように思うのですが、少なくなったように感じています。あくまで私の体感ですが、展示方針の転換が影響しているのかなあと思ってみたりしています。


長々とお読み頂きありがとうございました。最後に私が今の資料館にあったらいいなあと思う事を2つだけ述べて終わります。まず第一は平和公園の説明です。位置としては、一通りストーリーが展開し終わり現在への空間へとつなぐ⑧の場所です。平和公園が一望できる空間に、平和公園設立過程の簡単な経緯は展示されていますが、そこを深掘りするといいのになと思います。平和公園の建設を行う際に、遺骨や遺品があまりにも多く撤去した後の建設が難しかったため、盛り土して建設されました。すなわち平和公園一帯がお墓のようなものなのです。個人的にはあの時のまま時が止まった中島本町が眠っているように思います。今の平和公園をどう歩くのかといった要素を資料館が提供すると面白いんじゃないのかなと思います。資料館を出て終わりにさせない効能があると感じます。

2点目は軍都広島としての側面の強調です。戦争を語るという観点に立った時、原爆の悲惨さ意外にも広島から伝える事ができるメッセージはあると思います。呉の大和ミュージアムをはじめとして江田島の教育参考館など、広島には軍都広島の名残りとしての日本軍を知れる環境が残っています。戦中のみならず戦後初期の人々にとって、広島のシンボルが大本営跡であったことも顧みて、軍都としての側面も強調してもいいのではないかと思います。現状でも多すぎる情報量がさらに多くなる気がしますが、定期的にテーマと展示物が変わる特別展示ブースを大和ミュージアムからの一部出張展示等をやっても面白いんじゃないかなあと思う次第です。いわゆる軍事的な戦争と民間にとっての戦争が双方残されている地域として広島って結構優等生であり希少であると思うんですよね。まあ難しさも同時に感じますが、もう少し両者に関連性を持たせてもいいのではないかと思います。それこそ、「原爆記念資料館」ではなく「平和記念資料館なのだから。

うだうだと書きましたが、これら全て私個人の感じ方です。是非訪れて感じてみてほしいなあと思います。近くにある長田屋というお好み焼き屋さんが非常に美味しいです。

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