ユーザー間に働くある倫理観
MBTIユーザーが行うタイプ判定や考察には、共通して働いている倫理観があると考えている。自分が見たところ、それは2つある。ここではその2つについて説明する。
また、ここで言う倫理とは「明言化されていないが守るべき規範」という意味で使用している。明言化されている法や公理とは区別される。
1.一般的に悪徳とされている行為をタイプと関連付けてはいけない
一般的に悪徳とされている行為の一部を以下に列挙する。
いじめ
浮気、不倫
ストーカー
盗難、窃盗、借りパク
陰口を言う
マウントを取る
責任転嫁
ゴミの不法投棄
ネット上でのなりすまし
誹謗中傷
虚言
創作物の盗作
あらゆるハラスメント系
法に抵触するものと倫理に抵触するものとがあるが、いずれにせよ、これらの行為をタイプの特徴として一般化してはいけない。
2.タイプ間での優劣を語ってはいけない
あるタイプは有能、優秀であり、あるタイプは低能、無能である。こういう考察をしてはならない。
以上の2点を含んだ考察をした場合、自分、もしくは他人の倫理によって「それはタイプとは関係がなく、その人自身の問題である」「タイプに優劣は関係ない」という声が上がり、考察にストップがかかる。しかしこの線引きは恣意的である。ネガティブな評価は関係がないとされる一方で、ポジティブな評価は(無批判に)関係があるとみなされる傾向があると思う。
以下、個人的な意見。
まず1についてだが、こういった行いをする人間は現実にまぎれもなく存在する。類型論は複数の人間に見られる行動様式や価値観の類似性に着目するものであり、別にポジティブな類似点だけを見なくてはならないということはない。ライトサイドがあってダークサイドがある。無くて七癖。一人の人間に清濁あるなんて当たり前の話だ。タイプごとに悪癖があるという話でもある。そういうネガティブ面の考察を私は結構やる方だが、別に他人に強いるつもりはない。ただこういった考察に強い拒否反応を示す人には、精神の弱さを感じる。
自分がやる以上、他人がするのももちろん受容する。こういう考察をするモチベーションは、該当タイプから嫌な思いをした、というのがあるだろう。要は恨みややっかみが原動力になっている。そういう感情をあまり否定したくないというのもある。もちろん感情任せにやってしまってはただの悪口になってしまって、炎上騒ぎにもなりかねない。こういう考察をなるべく事故を起こさないようやるためには抽象的に捉えることが肝要で、少しコツがいる。
次に2についてだが、これは優生思想的なタイプ観への批判だろう。これは雑に「有能/無能」の二元論でとらえているのが筋が悪いのであって、パラメータを細かくみれば問題ない。例えば、言語化能力、運動能力、継続力、論理思考能力、コミュニケーション力、文章力、発想力、傾聴力、指導力などなど。人を楽しませたり、芸術のセンスなんてのも能力と言ってもいいと思う。成績表が優秀だったタイプはあるかもしれないが、総合的な人間観をもってみれば完全無欠のタイプなどはなく、一概に有能だとか無能だとかは言えないはずだ。
個人的にはこういった能力とタイプはある程度の相関関係はあるように思い、それこそタイプごとの適材適所だろう(若干理想論くさいが)。
今日、MBTIは広く認知されるようになり、コミュニケーションツールとして働くことが多くなったと思う。性格は誰でも持っているものだから、誰でも参加できるし、心理機能やタイプのあるある話は会話での格好のネタになる。そういうコミュニケーションを全く否定するわけではないが、聞こえのいい評価への安易な同調はバーナム効果へのいざないとなり得て、眼を曇らせると思う。
ちなみにだが、心理機能として倫理に関連がありそうなのはFeとFiであり、それぞれ社会倫理と個人倫理に区別できるように思う。
また、3つ目の倫理として「相性論で人間関係を規定すること」を上げようかと思ったが、相性論の否定材料として挙げられがちな「公式に相性論は存在しない」「ソシオニクスの相性論の流入及び混同」はどちらも公理の問題であり、倫理の問題ではないとみなしたため、本記事では除外した。
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