ラジかる☆ラジカりすと
まあ、あれよ。
なんてもかんでも、勢いに任せて変わることが正しいってわけじゃねえってことだよ。
ラジカルな人が多すぎる
世の中、何でもかんでも変革を望む人が多すぎる気がするんだよね、最近。
急激な環境意識の変化に、急激なEVシフトに、極端なアニマルライツや極端なフェミニズム、だとか、だとか。
政治の右も左も極端で、中道なんてことを主張したら、釘バットでボコられそうだし、ノンポリだなんて口にしようものなら、やっぱり釘バットでボコられそうだ。
なんでもかんでも急激に、極端な話をしはじめて、我こそが正義ぞと宣う人がネットにはワンサカいるわけなんだけど、そんな人たちの偽善にみちた言葉にゲンナリしている人も、きっとそれなりにいることだろう。
多様性がどーたらこーたら言いながら、自分が気に入らない側の多様性はガンとして認めないという、ご立派な心の棚の持ち主たちに、他の人たちは呆れるばかりだ。
しかも、声がでかい人たちばかりだから、やたら目立つのもタチが悪い。
「ネットの中も住みにくくなったなぁ」と、大手SNSから離れてさえも考え込まされてしまう。
そんな日々がいつのまにか来てしまっていたわけで、どこぞのFM曲のダイバーシティウンタラカンタラな番組をクルマの中で聞いてしまって、思わず舌打ちしながらラジオを消してしまうみたいなことが増えてきた。
ああ、住みにくい住みにくい。
キャズム理論じゃないけどさ
まあ、僕の肌感覚では、アニマルライツの活動家あたりが言ってる極端な理屈が、一番ラジカルなんじゃないかと思ったりするんだけど、歴史を遡って、黒人や女性の権利が認められるようになったのは、様々な活動があったからで、だからこそ声なき動物たちの権利も認められるべきだという活動が必要なのはわからなくもない。
しかしだ、スーパーや肉屋を破壊して理解しろと言われても、常軌を逸した活動に正義があろうはずがない。
それは啓蒙活動ではなく、単なる破壊だ。
同様に、絵画にスープかけようが、異性愛者をトランス嫌悪だとかレッテル貼りしようが、ウヨだのサヨだの罵ろうが、そんなもん第三者には理解できないし理解されないだろう。
十把一絡げに「なんか変なヤツら」と思われてオシマイなんじゃなかろうか。
キャズム理論じゃないけれど、超えなきゃいけない壁が、きっとこれらの話の中にもあるんだろう。
それを超えないことには、その他大勢の心には響かないし根付きもしまい。
理解者なき殺伐とした世の中を望むか?
「それでも叫ぶことが必要」なのか?
まあ、そうなのかもしれないね。
自分たちが、そこに生きた証だけが必要なら、永遠に叫んでいればいいと思う。
でも、ゴールはそこじゃないよね?
ゴールはきっと、「今よりもより良い世の中」にあるはずなんだけど、彼ら彼女らの言葉からは、それが想像できないってことを、誰か早めに教えてあげてほしい。
大切なのは北風よりも太陽なんだよ、多分。
じんわり、じんわりと、世の中に合わせて変わっていく方が、多分多くの人が幸せになれるんだと、僕は思うんだよね。
だから、極論よりも、理解される案を。
極端な変化よりも、穏やかな変化を。
早めに気づいて欲しいもんだねぇ……。
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