SNSの変質と弊害
朝っぱらから面白い記事を見つけたので、その話を少し書いてみたい。
言いたいことはよくわかる
上からモノをいうみたいでアレなんだけど、最近というか、少々昔からTwitter(誰が何と言おうが、僕はTwitterと呼び続けます)という場は、オモチャ箱からゴミ溜めになってしまったし、Facebookはビジネスパーソンの名刺に、インスタは承認欲求を充足させるためのショーケースに、TikTokは目立つためのお立ち台になっているわけだから、何も持っていない僕らのような人種には、居心地の悪い場所なんだよね。
何も持っていない人が、何でも持っていそうな人のアレやソレを見せつけられるというのは、あまり気分のいいものではないし、そういう心情を吐露すれば「持っていないのは自己責任です」と尋ねてもいないことを聞かされる地獄のような状況がSNSには起こりがちなので、そんなもんなら、無いほうがいいよねーって気分にもなる。
ど、どうしてこうなった?
いやもう、理由には想像がついてるんだよね。
実名制で招待制だった、かつてのmlxiは、そこまで治安が悪くなかったし、FacebookがTwitterよりも治安がマシなのは、自分と関わる人の関係が、ある程度実生活に影響する可能性があるからだと思うわけよ。
だから、そういった場所ではお行儀良く振る舞っている人が多くて、治安もほどほどに良いから居ても不愉快にはならず、そこまでユーザーにマイナスな影響は与えずにいられたんだろう。
まあ、この辺はあくまで想像の域を出ない話ですけどね。
でも、僕だってそうですけど、多くの場合人間は、意見を言いたがる生き物じゃないですか。
だから実害のない範囲で、自分と関わりのない人に対して、何かと意見を述べたがる。
相手が見つからなきゃ、検索機能を駆使してでも探しにいくし、気に入らなきゃ言いがかりであっても物申すわけだ。
そりゃあ、いい影響はでないでしょうよ。
価値を振りかざすのをやめる
Twitterなんかでは、ポリコレやらを振り翳して「我こそ正義」とか思っちゃう人も多いし、そういう人には正義と悪の二元論でしか世の中は見られないのでしょうから、当然、その規範に沿わない人にとっては居心地の悪い場所になる。
でも、世の中は善と悪ではなく、自分が納得できるルールとその他のルールが組み合わさってできているだけなんだよね。
本来、多様性って、そういう様々な価値観を認め合うことなんだろうけど、それでさえ価値観の押し付けの理由になってしまう。
そんな世の中だから、逃げ場所であったSNSでさえ、居心地の悪い場所になってしまう。
だから、誰かに価値観を押し付けるのをやめると、少しは居心地も良くなるのかも。
Not for meを認める
少し意見が衝突しても、お互いに「それは自分向けじゃない」と理解すれば、そしてお互いの言うことを尊重できれば、世の中は少しはマシになるのだろう。
だから、思ったことはリプライせずにnoteに書こう。
誰宛でもなく、ただ書こう。
それなら、多分その場は荒れない、と思ったりなんかするわけだ。
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