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第7章『万国公法』と植民地支配②

東アジア再編を促した伝説の名著とは?

 19世紀前半(ウィーン体制期)の国際法を集大成したのがアメリカの国際法学者ヘンリー・ホイートンです。主著の『国際法原理』は、アヘン戦争後、欧米諸国の脅威に直面した東アジア諸国で翻訳紹介され、国際法の権威として大きな影響を与えました。


 アヘン戦争後、清朝との条約締結交渉に苦戦した各国は、清朝の官僚に西欧の国際法を認知させることで、交渉を円滑にしようと考えました。


 米国人宣教師ウィリアム・マーティンはアヘン戦争後に上海へ渡り、中国語をマスターしました。アロー戦争中は天津条約の起草にあたり、戦後、清朝が北京に開いた外交官養成学校・同文館の教授となり、のちに校長に就任します。


 ホイートンの『国際法原理』は、このマーティンが漢訳して『万国公法』というタイトルで刊行され(1864)、全国の官僚・軍人に配布されました。清朝の側でも、「夷狄(いてき)の法をもって夷狄を牽制する」という戦略に転換したのです。


『万国公法』の内容は、以下の通りきわめて実務的で、実際の外交交渉にすぐに役立つものでした(加藤周一・丸山眞男編『日本近代思想大系15 翻訳の思想』岩波書店)。

1.国際法の意味を説き、法源を明らかにし、大要を論ず
 1.国際法の意味と起源を明らかにする
 2.国家の自治権、自主権を論ず
2.各国の自然権を論ず
 1.国家の自衛権、自主権を論ず
 2.法律の制定権を論ず
3.各国の平等権を論ず
4.各国の所有権を論ず
5.平時における国家間の外交権を論ず
 1.公使の権利を論ず
 2.通商条約締結の権利を論ず
6.交戦規定を論ず
 1.開戦を論ず
 2.敵国との交戦時の権利を論ず
 3.局外中立の権利を論ず
 4.講和条約を論ず

『万国公法』の頒布と同時に清朝の改革派(洋務派)の官僚たちは、積極的な外資導入と欧米技術の導入による富国強兵に乗り出しました(洋務運動)。
 

 これは日本の明治維新と同時期に行われた近代化運動で、鉄道の敷設や北洋艦隊の創設(軍艦の多くは英国製)など一定の成果をあげました。アジア最強を自負した北洋艦隊は、日清戦争で壊滅することになります。

勝海舟も坂本龍馬も『万国公法』を読んでいた

 ペリーが2度目に来航した1854年、江戸幕府はついに日米和親条約を結んで開国しました。


 ペリーは9隻の艦隊(うち蒸気軍艦3隻)を率いて江戸湾に入り、祝砲と称して大砲を連射し、沖合には50隻、本国にはさらに50隻の軍艦が待機していると大ボラを吹きましたが、実際には当時まだ小国だったアメリカは日本との戦争を恐れており、大統領フィルモアはペリーに武力行使を禁じていました。


 アメリカの要求は、①自由貿易、②漂流民の保護、③捕鯨船の寄港地の確保、の3点でした。
 幕府は①は拒絶し、②は従来通りであると認め、③は長崎に加えて下田と箱館を開きました。
 これでペリーは引き下がり、事なきを得たのです。つまりこの段階で幕府は自由貿易=「開国」を認めていません。

 ところが4年後、アメリカの態度は急変しました。この間、アロー戦争で清朝が大敗したからです。


 下田に着任した貿易商出身の駐日公使ハリスは、北京を占領したイギリス軍が日本に迫る前に、アメリカと条約を結んで開国すべきだと論じました。自分の手を汚さず、イギリスという「虎の威」を借りたわけです。
 

 日米修好通商条約(1858)は、以下の2点から不平等条約といわれます。          

・アメリカの領事裁判権を認めた……幕府はアメリカ人の犯罪を取り締まれない。
・日本は関税自主権を失った……輸入品にかける関税率を相手国と協議する。

 いずれも、アヘン戦争後イギリスが清朝に認めさせた条項です。同じような規定を持つ条約を英・仏・露・蘭とも結び、合わせて安政の五カ国条約といいます。とくに関税自主権の喪失は、関税率を20%(のち5%)に制限されたことから、安価な輸入品が流れ込み、日本の国内産業にとっては大きな打撃となりました。

 海軍力で侮られたから、不平等条約を結ばされた―

 幕府は海軍力の強化と国際法の受容を最優先の課題と認めました。

 2度目のペリー来航の翌年(1855)、幕府は友好関係にあったオランダの協力を得て、長崎出島の近くに海軍伝習所を設置しました。

 これは幕府の海軍士官学校であり、軍艦の操練や航海術はもちろん、西欧医学も学ばせました。幕臣の勝海舟、榎本武揚(えのもとたけあき)がここで学んでいます。


 また、練習艦として最新鋭の蒸気軍艦3隻をアメリカに発注しましたが、南北戦争が激化したアメリカに断られたため、発注先をオランダに変更しました。

・観光丸(353トン/大砲6門)
・咸臨(かんりん)丸(620トン/大砲12門)
・朝陽丸(300トン/大砲12門)

 日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行(外務大臣)新見正興を正使とする日本使節団が米艦ポーハタン号で渡米します(1860)。

 その護衛艦として幕府の咸臨丸が同行し、勝海舟ら海軍伝習所の卒業生、元漂流民で英語通訳のジョン万次郎、蘭学者で英語を学んでいた福沢諭吉が乗船しました。往路は米国人艦長ブルックが操船しましたが、復路は勝海舟ら日本人だけで操船しています。

 
 アメリカを見て衝撃を受けた勝海舟は、幕府内の改革派の急先鋒となります。一方で、開国に反対する尊王攘夷派のテロも頻発し、横浜ではイギリス人が殺傷される生麦事件が起こり、勝も命を狙われます。

 攘夷派の土佐藩士・坂本龍馬は、勝の暗殺を計画して面会を果たしましたが、逆に勝から米国事情を聞かされると攘夷の不可能を悟り、門弟になってしまいます。漢語訳『万国公法』が日本にもたらされたのは1865年頃で、勝も龍馬もすぐに手に入れています。


 大坂湾防衛の必要を感じた勝は、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)に上奏して神戸に海軍操練所を建設。こちらは幕臣のみならず、「オールジャパン」で海軍士官を要請することを目的としたため、土佐藩士や長州藩士もここで学びました。ここで操船技術を学んだ坂本龍馬は、長崎で日本初の総合商社である海援隊を設立します。

 海軍力と国際法が、日本を列強の侵略から防衛するためにどうしても必要な2つの武器でした。海軍伝習所が海軍の創設を目的としたように、国際法の受容を目的とした洋学研究機関を幕府が創設しました(1856)。

 これが蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(のち開成所と改称)で、東京大学の源流の1つです。
 はじめは長崎経由で入ってくるオランダ語文献の翻訳を業務としていました。しかし、19世紀の世界の覇権はイギリスが握っており、国際法に関する文献も英文が多くなっていました。
 大政奉還が行われた慶応3年(1867)、蕃書調所はホイートンの漢語訳『万国公法』を出版しています。

 蕃書調所には幕臣のほか、諸藩の藩校で蘭学を学ぶ優秀な学生も入学を許されました。津和野藩士の西周(にしあまね)は教授手伝いとなりました。海軍伝習所が軍艦を発注した際、伝習所の榎本武揚らとオランダに留学、ライデン大学で経済学と外交史を教えるフィッセリングに師事し、2年間にわたりオランダ語で講義を受け、膨大なノートをとりました。

 帰国した西周は、15代将軍慶喜(よしのぶ)の命を受け慶応4年/明治元年(1868)に『畢洒林(フィッセリング)氏万国公法』を刊行します。これが、日本語訳された最初の万国公法で、ホイートンの『万国公法』と比べてより実務的な内容になっています。


 ところで、洋書の日本語翻訳における西周の功績は絶大なものです。
 哲学、科学、芸術、知識、概念、理性、定義……これらの単語は江戸時代の日本語にはなく、豊富な漢籍の知識を持つ西周が新たに考案したものなのです。


 彼が漢語に翻訳したことで、漢字文化圏の人々にも理解可能な概念となったのです。植民地化された東南アジアの国々では、大学の講義は独立後も英語やフランス語、オランダ語で行われています。今日、日本人が日本語で西欧の文献を読めるのは、西周ら幕末明治期の優れた翻訳者のおかげです。これらの和製漢語は日本語として定着しているのみならず、中国にも逆輸出されて西洋思想の普及に貢献しました。


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