第7章 『万国公法』と植民地支配①
国際法の構築に影響を与えた思想家たち
1世紀の間、西欧諸国を苦しめた不毛の宗教戦争―その深淵をのぞき込んだヨーロッパ人は、神のためではなく人間のために生きることを決意しました。
最後の宗教戦争である三十年戦争の結果生まれたウェストファリア体制では、各国は主権国家として完全な独立を認められ、内政の不干渉と対等な外交関係という大原則を定めました。さらに条約という形で国家間の関係を維持し、一定のルールのもとに戦争の被害を抑制しようとしました。
・そもそも主権国家の成立要件とは何か?
・A国からB国が独立を求める場合、何を条件として独立を認めるのか?
・革命で政権が交代した場合、前の政権が結んだ条約は有効なのか?
・戦争はどのように開始し、どのように終わらせるのか?
幾多の戦争と講和の積み重ねにより、これらの細かいルールが、国際慣習法としてヨーロッパで集積されたものが国際法(万国公法)なのです。
第5章で紹介したグロティウスの唱えた近代国際法を具体的に構築した人物が、18世紀のスイスの法学者でドイツのザクセン公に仕えたエメリヒ・ヴァッテルでした。
ヴァッテルは『国際法』(1758)を著し、「無差別戦争観」を提唱したことで知られます。これは無差別に他国を侵略していい、という意味ではありません。
個人が神から与えられた自然権の一つとして生存権を持ち、正当防衛の権利を持つように、あらゆる国家はウェストファリア体制下で対等な主権を持ち、自衛の権利を行使できる。国家が生き残るために発動する戦争にはもはや「正義」も「不義」もなく、「正戦論」自体が無意味である、という意味です。
突きつめればすべての戦争は合法であるが、その被害を最小化するため戦争のルール(戦時国際法)を定め、ルール違反を罰するしかない、というのがヴァッテルの無差別戦争観なのです。
戦時国際法は、三十年戦争のようなだらだら続く戦争を回避するため、時間的・空間的に戦争を制限し、戦闘員(兵士)と非戦闘員(捕虜・一般市民)とを明確に区別します。このため、開戦と停戦を明確に宣言し、戦闘員には軍服の着用を義務付け、降伏の意思表示の方法や、捕虜の扱いを明文化しました。
フランス語で書かれたヴァッテルの『国際法』は英語に翻訳され、アメリカ合衆国の建国の父であるジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリンらに影響を与えました。彼らはイギリスに対する独立戦争の過程で、アメリカを主権国家として承認させるためにヴァッテルの『国際法』を援用したのです。
なお、ワシントンはニューヨーク社会図書館から『国際法』を借りたまま亡くなり、221年後の2010年に「返却」されて話題になりました。
建国間もないアメリカ合衆国は、ナポレオン戦争に巻き込まれます。欧州大陸をフランスのナポレオンが席巻すると、敵対するイギリスがアメリカ合衆国と欧州諸国との通商を妨害したため、米英戦争(第二次独立戦争)が勃発したのです。
ナポレオン戦争はフランスの敗北で終わり、ウィーン議定書(1815)でヨーロッパの秩序が再建されました。これと同時に、条約の締結手続きや特命全権大使・公使の常駐など、外交儀礼(プロトコル)がほぼ確立されました。
ニューヨーク海事審判所の判事で、のちに合衆国の駐プロイセン全権大使も務めたヘンリー・ホイートンは『国際法原理』(1836)を著し、ウィーン体制下の国際法を集大成しました。
この本は各国語に訳され、特筆すべきはアヘン戦争(1840〜42)後の東アジア各国が主権国家体制に参入する際のガイドブックとして学ばれたのです(後述)。
アヘン戦争における「文明の衝突」
「主権国家は対等」という近代国際法の原則を打ち立てた西欧諸国ですが、非西欧地域にある国々にもこの原則を適用したのでしょうか。
近代国際法は、あくまで三十年戦争後の欧州世界(キリスト教世界)で形成されていった慣習法です。
イスラム世界にはオスマン帝国を盟主とし、『コーラン』のイスラム法に基づく国際秩序がありました。イスラム法が適用される世界を「平和の家(ダール・ル・イスラム)」、非イスラーム世界を「戦争の家(ダール・ル・ハルブ)」と呼んで区別し、「平和の家」内部での戦争が抑制される一方、イスラム法を拒む「戦争の家」に対する戦争は、聖戦(ジハード)として正当化されました。
東アジアには中華帝国(明・清)を盟主とする冊封体制(華夷秩序)に基づく国際秩序がありました。ここでは帝国の支配が及ぶ文明圏を意味する「中華」の周辺に、定期的に朝貢してくる朝鮮・琉球・ベトナムなど「冊封国」が点在し、その外側には文明が及ばない「化外(けがい)の民」が広がっていました。
ちなみに「中華」とは文明という概念であり、民族概念ではありません。清朝を建てた満洲人はもともと狩猟民族で「化外の民」でしたが、中華文明を受容することにより中華帝国の後継者となったのです。文明とは、具体的には漢文の読み書き能力を意味しましたので、台湾先住民も欧米人も等しく「化外」とされました。
19世紀半ば以降、蒸気船と機関銃で武装した西欧諸国は、アジア・アフリカ諸国の開国(貿易自由化)と植民地化のため、艦隊を派遣しました。
清朝中国からの茶の輸入で貿易赤字を累積していたイギリスは、自由貿易によるイギリス製綿布の輸出拡大と対等外交を求め、マカートニーを全権大使として清朝に派遣しました。
しかしイギリスを単なる朝貢国とみなす清朝の第6代皇帝乾隆帝は、イギリスの要求を一蹴しました。乾隆帝がイギリス王ジョージ3世に与えた国書には、「化外の民」に対する中華皇帝の意識がはっきり表れています。
天朝(清朝)の物産は豊かにして足りないものはなく、外夷の物産は必要ない。ただ天朝が産する茶葉・磁器・生糸は西欧各国やあなたの国の必需品であるから、特別の恩恵を与えて思いやり、……余沢にあずかることを認めている。いま、あなたの国の使者が定例外のことを多く乞い願うのは、遠来の客人に恵みを与え、四方の蛮夷をいつくしむ天朝を仰ぎ見るべき態度に大いに反する。
(『清実録高宗純皇帝実録』35、15葉/著者が口語訳)
交渉が決裂すると、イギリス商人はインド産アヘンを清朝に密輸し、利益の回収を図りました。これを知った清の第8代皇帝道光帝は、欽差大臣(皇帝代理)の林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣し、イギリス商館のアヘンを没収して廃棄処分にしました。アヘンは清朝では禁制品でしたから、これを没収するのは主権国家としての正当な権利です。林則徐はヴァッテルの『国際法』の部分漢訳本を入手しており、西欧諸国にも「道理」が通用すると甘く見ていました。
報告を受けたイギリスのパーマストン外相は、下院で演説します。
中国政府の意図が(アヘン禁止という)道徳的慣習の成長を促すものであったと心から信じていると真顔で言えるかどうか問いただしたい。中国国内でなぜ芥子(けし)の栽培が禁止されなかったのかを問うことが、こうした仮説への反論となる。問題は(アヘン代金としての)銀地金の輸出、(アヘン栽培業者の)農業利害の保護であるというのが、事実である。……
(ロンドンの中国貿易商人)の利益こそが危機に瀕しており……この人々が、自発的に、(自由貿易推進という)政府の諸目的が遂行されなければ、中国におけるイギリスの通商は終焉を迎えるだろうと主張しているのである。
武力の示威が、さらなる流血を引き起こすことなしに、われわれの通商関係を再興するという願わしい結果をもたらすかもしれないと、すでに表明されている。このことにわたくしも心から同意するものである。
(歴史学研究会編『世界史史料』6 岩波書店 P.150)
イギリス下院は開戦を決議し、蒸気船を主力とする艦隊がはじめて中国に派遣されました(アヘン戦争)。イギリス艦隊が一方的に艦砲射撃を加えながら長江を遡上し、南京に接近すると、道光帝は講和に応じ、イギリス軍艦上で南京条約(1842)を結びました。
香港がイギリスに割譲されたのはこのときで、広州など5港の開港を認めさせました。開港場には外国人居留区として租界が設けられ、諸外国が警察権を握りました。さらに追加条約で、イギリスは以下の条項を欧米各国に認めさせました。
・欧米各国の領事裁判権を認める……清朝は外国人の犯罪を取り締まれない。
・清朝は関税自主権を失う……輸入品にかける関税率を相手国と協議する。
それでも清朝から見れば、アヘン戦争は北京から遠い南方の地で起こった「夷狄(いてき)の反乱」であり、対等外交については頑として認めませんでした。広大な中国で開港場が5カ所というのも少なすぎ、イギリスはさらなる武力行使の必要を感じていました。
1856年、広州沖で海賊船アロー号が清朝官憲に拿捕されます。拘束された乗組員12名は中国人でしたが、イギリス領香港の船籍を示すため船尾に
英国国旗ユニオン・ジャックを掲げていたのです。
実はアロー号は船籍登録期限が過ぎており、ユニオン・ジャックを掲げること自体が違法だったのですが、清朝の官憲がこれを引きずり下ろしたとの報を受けたイギリスの広州領事パークスは、「英国国旗に対する侮辱である」として謝罪を要求。清朝側がこれを拒否すると、香港総督ボーリングは現地のイギリス艦隊を動員して広州一帯の砲台を占領します。
首相となっていたパーマストン卿は本国から5000人を増派し、フランスも共同出兵しました。北京の外港である天津(てんしん)を占領した英・仏連合軍は、外国公使の北京常駐、賠償金の支払い、キリスト教の布教の自由などを認める天津条約を強要しました。大使・公使の相手国首都への常駐は英・仏はもはや朝貢国ではなく、清朝と対等に扱われることを意味します。イギリスは、清朝をウェストファリア体制に引き込もうとしたのです。
条約は、双方の全権代表が2通に署名し、それぞれ持ち帰って本国政府の承認(批准)を経たのち、批准書の交換という形で締結されます。
批准書の交換のため再び天津に姿を現した英・仏連合艦隊に対し、清朝は上陸を妨害し、砲撃を加えました。ここに交渉は決裂し、エルギン伯が率いる英・仏軍は上陸して北京を占領します。北京近郊にあった西欧式の離宮・円明園(えんめいえん)が徹底的に略奪され、火をかけられたのはこのときです。軍事施設でもない円明園の破壊と略奪は明らかな国際法違反で、略奪したフランス軍と火をかけたイギリス軍が双方で非難し合いますが、結局、責任はうやむやになりました。
第9代皇帝咸豊(かんぽう)帝は満洲の熱河(ねっか)に逃亡し、ロシア公使の仲裁で北京条約(1860)が結ばれました。天津条約の再確認に加え、天津の開港と、香港に隣接する九竜半島南部のイギリスへの割譲を認めさせました。清朝皇帝ははじめて西欧諸国の国家元首と対等な外交関係を結び、これまで朝貢使節を接受していた礼部に代わって、外務省に相当する総理各国事務衙門(総理衙門)が新設されました。各国の特命全権公使が北京に常駐し、清朝皇帝に面会できるようになりました。
なお、欧米列強同士では特命全権大使を交換しましたが、清朝や日本に対しては公使を派遣しました。駐日公使が駐日大使に格上げされるのは、日本が日清戦争に勝利した後のことです。
日本との開国交渉に手こずっていたアメリカの駐日公使タウンゼント・ハリスは、アロー戦争の経緯を江戸幕府に報告し、イギリス軍が軍事介入する前に日本が開国することをすすめます。大老・井伊直弼はこれを受けて日米修好通商条約に調印(1858)、日本は開国へと舵を切ったのです。
アジア・アフリカは国際法の枠外だった
ところで英・仏連合軍が中国で行った一連の戦争行為は、近代国際法にかなうものだったとは思えません。これをどう説明するのでしょう?
実は、アジア・アフリカ諸国は「非文明国」であるから、近代国際法の「適用範囲外」とみなされていたのです(小林啓治『国際秩序の形成と近代日本』「近代国際社会から現代国際社会へ」吉川弘文館)。
英エディンバラ大学のジェームズ・ロリマーは、西欧諸国がアフリカの分割、植民地化を露骨に進めていた時代に国際法の適用範囲を整理した学者です。彼は『国際法原理』(1883〜84)でこう書いています。
政治的現象としてみると、人類は、現時点において、三つの同心円的世界に分かれる。すなわち、文明化された(civilized)人類、未開の
(barbarous)人類、野蛮な(savage)人類である。
この三つの同心円に……対応するのが、まさしく文明国の手中にある承認の三つの段階である……。
完全な政治的承認の範囲は、ヨーロッパの現存するすべての国家に及ぶ……。
部分的な政治的承認は、……トルコ、ヨーロッパの属国とならなかったアジアの古い歴史ある国家、ペルシアや中央アジアのいくつかの国家、中国、タイ、日本に対するものである。
残余の人類が、自然的あるいは単なる人間としての承認の対象となる……。
国際法学者が直接の対象としなければならないのは、第一の同心円だけである。……国際法学者は、実定国際法を野蛮な人類に対して、あるいは未開の人類にすら適用してはならない。
(ロリマー『国際法原理』:山内進『文明は暴力を超えられるか』筑摩書房
P.299)
中国人は欧米人を「礼」の及ばない「化外の民」とみなしましたが、欧米人もまたアジア諸民族を国際法の及ばない「未開の人類」とみなしていたのです。
白村江の敗戦以来、中華帝国の冊封体制に入らず独立を維持してきた日本ですが、ペリー来航以後は欧米の圧力にさらされました。清朝のように欧米諸国に蹂躙させないためには、「野蛮国」「未開国」とみなされないようにし、「文明国」の一員として認められる必要がありました。
その第一の手段はもちろん海軍力ですが、第二の手段は、欧米諸国が作り上げたルールである近代国際法をわがものとすることだったのです。