ほら、あの人の両の眼をみてごらん

千峰雨霽露光冷 君看双眼色 不語似無憂(せんぽうあめはれて、ろこうすさまじ きみみよそうがんのいろ、かたらざればうれいなきににたり)

「千峰雨霽露光冷」という大燈国師の句に、白隠禅師が「君看双眼色 不語似無憂」という下語をお付けになった際の連句だ。良寛さまもよく引用なさっているらしく、最近補正項を読んでいて知った。

私が好きなのは、どちらかと言えば白隠禅師が付けた下語の方で「ほら、あの人の両の眼の色を見てごらん。黙っていれば愁いがないように見えるだろう」という風な解釈なのだが、ネット上で「なんにも言わない君の苦しみをしっています。一人じゃない、いつもそばにいます」と訳している人を見つけた。本来の仏教的な解釈を意図するところからは離れた意訳のようにも感じるのだが、物凄く気にいった。昨日なんとなくそんな気持ちになったので(いつもそんな気持ちだけれど)、「大丈夫」とだけ付け足して呟いていた。

「苦しみをしっています」というのは、行間的に苦しみそのものではなくて「苦しみ」が「あること」を知っている。あなたが口には出さないけれど苦しみを抱えているという事を知っている。しかもその「口には出さない」というのは何も言わないという意味では無くて、本当は自分でも分かっているのだけれど、抑えつけている。或いは、見ないようにしている。だから分かるようには言わない。それは、口に出せば愁いになると知っているから。

だから「黙っていれば愁いがないように見えるだろう」という事なんだ。ある種の自己欺瞞というか、そういう所がとても人間っぽい。そしてこれを詠む側は「苦しみがあることを知っている」という事を口にする、という事は、貴方を想っていますという風に感じる。 心配というと一方的な感じがして嫌なのでそう解釈した。全体が一つの表現になっている気がして、とても好きな句だ。

と、もし私と同じような解釈で「なんにも言わない君の苦しみをしっています。一人じゃない、いつもそばにいます」と訳したのなら、その人は途方もなく慈愛に溢れた方なんだろうなというのが、これだけでもとてもよく分かる。


SNSは、自己欺瞞陳列館みたいなものだと思う。コンプレックスや過去の強烈なトラウマを抑えつけて、排他的になっている人が多い。最近ユングが言うところの「自己(self)」という言葉を知ったのだが、心全体の中心という意味で、自我と対立(するのかな?)するような意味合いを持つらしい。

私は人間という生き物は、自分が本当に思っている事は自分では分からないと思っている。例えば私はカウンセラーになりたいとなりたいと自我の部分、つまり意識の部分では思っているが、無意識の部分では歌手になりたいだとか、農家になりたいだとか、ひょっとしたら宇宙飛行士になりたいだとか思っているかもしれない。

そういう部分があるかもしれないという事に気づいたとして、特に悩みなく受け入れられる人はいい。問題は抑圧してしまう人だ。

特に「私は絶対に働かない、労働は死すべし」みたいな感じな人の文章を読んでいると、そういった物をひしひしと感じる。しかし、本人達は気付いていないか、気付いてもまず抵抗(抑圧)なさるので、「本当は働きたいんでしょ?」なんてファッショな事はもちろん言わない。抑圧してしまう理由は、個人的な解釈でいうと、過去の経験から来るコンプレックスかトラウマだと思う。

私は別に「みんな働きたいと思ってるんでしょ?」と言いたい訳ではない。「働きたい」というのは正しくないと思う。じゃあなんなのかというと、「みんな人を助けたいと思ってるんでしょ?」という事だ。これは正しいんじゃないかと踏んでいる。ありがたーいアドバイスだとか、ありがたーいお小言だとか、自分の考えと同じ考えに相手を変えようとするとかね。ある種の性善説なのだが、みんな正しい人助けのやり方を知らないからこんがらがった事になる、という訳だ。アドラー心理学は人を観る目が暖かいというのはこういう部分だ。

だからこそ「なんにも言わない君の苦しみをしっています。一人じゃない、いつもそばにいます」なのだ。直接は言わないけれど、貴方の書く文章から、貴方の発する言葉から、貴方の一挙一動からそれを感じる。だから私は余計な事は言わず口を噤んで、ただ貴方のそばにいます。私の周りにそういった方が多いおかげか、SNSを開くと、最近いつもそういう気持ちになる。