何も無い私に何が出来るのか

家に140万近くを払えという訴訟予告が届いた。親戚から借りたお金も合わせると、多分300万ぐらいは借金があるんじゃないかなぁ。まあ慣れたものです。


最近よくTwitterのおすすめ欄(あれは不健全だと思う)に心理職の方々が表示されるのだが、今日の日本でカウンセラーとして定職に就く多くの方々は、基本的に「臨床心理士」と「公認心理師」という資格を持っている。

「臨床心理士」は「日本臨床心理士資格認定協会」という所が授与している民間資格で、長年の信頼と実績がある。一方「公認心理師」というのは国の下、近年新しくできた心理職の国家資格だ。

詳しくは言及しないのだが、臨床心理士と公認心理師の間には少しばかり因縁がある。それで公認心理師しか持っていない人はどうとか、Gルートがどうとか、心理士資格を持っていないカウンセラーはどうとか、色々と怖い事を書いている人が多い。「人の命がかかっているんだ」という言葉が持つ支配性を理解してから口にしてほしいなとは思う。医師の自殺率が高い一番の原因はこれだろう。誰とは言わないが、それを医者が言うのは本末転倒だ。

「臨床心理士」という名前の人も「公認心理師」という名前の人もおらず、ただその資格を持っているかどうかに過ぎないのだが、時より過激な事を書いている人を見つけると、カウンセラーといえども、必ずしも人格的に尊敬できる訳ではないという事を、自らを持って証明しているのだなと感じる。上に書いた事は例えば「障がい者」という人が居ないのと同じことだ。

私には何もない。それは肩書きがないというのもそうなのだが、知識も教養も技術も経験もない。時より人と話すと、大いに買いかぶられる事が多々あるのだが、私にあるのは惰性的に歩んできた自らの人生だけだ。私には何もない。

「何もない私に何ができるのだろう」と最近よく考える。悲観的になっている訳ではなくて、ただ実直にそれを問うている。精神科医の森川すいめいさんが過去に、

「温かく受け止められたとき、よろいが抜けるんですよね、体から。なんだ、自分はこんなに専門家になろうとか、技法とか嫌いと言ってながら、いっぱいよろいや武器を持ってたんだって。つまりは丸裸で、全身全霊でその人の側にいられなかったんだなって。一個の人間として、一個の人間の前にいられなかった。技法を持ってその人を助けようとしていた」

と言っていた。この方は私の尊敬する数少ない精神科医の一人だ。私の人生には人間的に尊敬できると思える人が本当に少ないので、どんな人物かを登載しておく。虐待の描写があるので苦手な方は見ない方がいい。

私はたぶん根本から、治療者と患者という二者関係になるのが嫌いなのだと思う。だって、クライエントは治療者の事を何も知らないのに、治療者はクライエントのあらゆる情報を聞き出す為の権威が、少なくとも診察室の中ではある。それ自体が億劫になってしまう患者さんというのは居る。少なくとも私の母はそういうタイプの人間だった。だからオープンダイアローグや、常に診察室の扉を開けていたというアドラーの考えに興味が沸いた。

「カウンセリング」というのは資格所持者の独占業務ではないので、名乗ろうと思えば誰でも名乗れるし、仕事にもできる。現にそういう方は沢山おられる。もちろん私だって今にでも名乗って仕事しようと思えばできるのだが、そうしないのは自身が無知蒙昧だからだと、専門的な学びの無いまま行うのは相手に対して無責任だからだと考えていたのだが、なんだか最近よく分からなくなってきている。

カウンセリングは、例えばプログラミングなどと違って、実際に自分に才能があるのかどうかというのが分かりにくい。実践の場がないし、そもそも、その実践自体の責任が、家でHTMLを触るより遥かに大きい。

私は今どちらの資格も取らずに活動する事は可能かという事を考えている。肩書きの無い自分に何ができるのかというのは、私には資格の有無どうこうよりも、「『私(わたくし)』としてどう生きるのか」という方が大切なのだ。

悩みか。悩みとは無意味なものだと何度も野田先生に諭され、また悩み、また諭される、というような事を繰り返している。

どうしても常識の範疇から逃れられない。そこから逸脱した際の周囲の人間の反応を想像してしまう。あと一歩。あと一歩の勇気が足りない。

ここまで書いて、やはり自分は2種体癖なんだという事を核心した。コナーくんが「不幸な将来が待ってそうな顔」と言われていたが、そんな顔をしている。けれども、こうして書いたら少しは落ち着いてきたぞ。今こそ課題の分離が必要な時かもしれない。来世は、できればもう少し自己中心的な性格に生まれたい。


余談だが「課題の分離」という言葉はアドラーが言ったのでも岸見先生が言ったのでもなく、野田俊作先生が「誰の責任か?(Who's Responsibility?」というアメリカでの言葉を、「誰の課題か?」に置き換えて日本に持ってきたものだ。この件で言うと、私の人生の責任は私にしか負えないのであって、それを他者が変えようとする権利はない。少なくとも共同体感覚とは切り離して考えるとね。今はおまじない的にこう考えようかな。

娘にも言ってるのが、「そのうちちゃんと自分で挫折するよ」ってこと。周りはやきもきするけどね。「人を殺してなんで悪いの」とまではなっていないし、基本だけはちゃんとしとけば少々のことはいいのよ。あれもこれも親が手を出して、あとから「たいへんだったんだから」と言うよりは、本人に任せていくほうがいいの。

樹木希林 https://bunshun.jp/articles/-/55689

今は亡き俳優の樹木希林さんの言葉だが、この言葉は物凄くアドラー的だと思う。私が挫折するまで見守っていてください。