合獣の森 2-1章
第2−1章:訓練
目を覚ますと、まだ外は薄暗かった。気温が最も下がる夜明け前は、部屋の温度も下がり、サナはもう一度布団を被りたい欲をグッと堪えて、体を起こす。冷たい水で顔を洗い目を覚ましてから、暖かい作業着に着替えて、エマとジュンと共にバトラのとこへ向かった。
二人と共にバトラに餌を与えて、小屋の掃除やメンテナンスをしてから訓練の日々が続いていた。特注の鞍を用意してもらい、それをバトラの中でも特に美しい白銀の毛並みを揃えたステラの背中につけて、雪の上を軽やかに歩んでいた。
サナはその体をそっと撫でてから鎧(あぶみ)に足をかけ、ヨッと声を出しながらその背中に跨った。バトラの温もりを感じながら、おだやかな鳴き声に耳を傾けた。しかし、それはただの騎乗訓練ではなかった。
「ゆっくり深呼吸をして、意識をステラに向けながら赤の瞳が発動した時のことを思い出してみて」
エマの声を聞きながら神経を体全体に広げていく。やがて、サナの体はステラになり、ステラが雪を噛み締める感触、尻尾をふる動き、荒い息遣い全てがサナに伝わってくる。そうやって意識と無意識の狭間に置かれるとなんとなく過去のあのバトラに乗っていた時の記憶が呼び覚まされていく。すると次第に彼女の視界は一層広がっていった。その代わりに現実と夢幻の境界が曖昧になり、半ば朦朧とした意識の中で世界が広がっていく感覚に襲われた。サナは自分の意識を赤い瞳に導き、その特異な状態を理解しようとした。
ただ、意識が散漫になると、感覚は現実にと揺り戻され、瞳は元に戻るようだったので集中力が試された。瞳が赤く輝く瞬間、彼女の心は鼓動とともに高まり、自由な舞台に舞い上がるかのようだった。
ジュンはサナの意識がステラと統一できたのを身図ると「よし、走ってみよう」と声をかけた。
全身に羽が生えたように体が軽くなり、サナはバトラと共に雪原を駆け出した。重たい雪を軽やかに、風を切りながら走っていくのは非常に心地のいい感覚だった。呼吸が荒くなり、地面を強く蹴り出す感覚、バトラの体温と伝わってくる匂い、そういう生命の躍動感全てが彼女を覆っていた。そういう時彼女の瞳はルビーのように赤く照り出し、まるで雪の中に閉じ込めた夜空を映し出すように美しく、優雅だった。
「よし、そのまま飛ぶんだ」
遠くからジュンの声が聞こえてきて、軽やかな駆け足に代わって、翼が広がっていく感触を覚えた。バサバサっと近くから大きな音を立てながら、やがてその体が宙に浮かんでいくようだった。だが同時に、とてつもない恐怖で目の前が真っ暗になった。
そうして翼はいつの間にかしまわれて、軽やかなステップも止まり、いつもの現実に引き戻された。
「やっぱり、飛ぶのは怖いわ」
「ほんの一瞬だけど、雪の上を飛んでいたよ。これは大きな成長だよ」
ジュンは微笑みながら優しく声をかけた。
サナは空を飛ぼうとする度に、もし、空を飛んだ瞬間に現実に揺り戻されたら、制御しきれなかったらという不安に襲われていた。彼女の不安がそのままステラにも伝播するようで、瞳の制御には慣れてきても最後まで彼女は羽ばたくことに戸惑いを感じていた。
「でも、確実に瞳は制御できるようになってきているね。今日は30分は持続していたよ。最初の頃と比べると大違いだ。」
サナはバトラと二年間かけて信頼関係を確実に築き上げていた。バトラとの関係は、最初はサナにとって苦しいものだった。サナはバトラどころか合獣を避けるようにして過ごしていた。過去の因縁や祖先の歴史が、バトラを見る目を歪ませていた。しかし、ジュンは絶えず、バトラとサナが互いに理解し合うことの重要性を説いていた。ジュン自身がキーパーとしての使命を受け入れ、バトラとのコミュニケーションを深めていく中で、サナの心を変化させていった。
バトラもまた、サナに心を開くのに時間がかかった。最初は警戒心が強く、どうしても過去の経験から解放されなかった。しかし、ジュンの指導により、バトラもサナの変化に気づき、おおらかな心を持ち始めた。特にジュンの影響で、バトラはますます知性を発揮し、サナとの信頼関係を築いていった。
ただ、そういうジュンの真摯な姿を見ているとサナは時折、ジュンの瞳を見つめながら、「もし彼が赤い瞳を持っていたら…」という想いを抱かずにはいられなかった。赤い瞳を持つ者は合獣との交流に優れ、その特別な視線がバトラとのコミュニケーションをより深めるのに適しているとされていた。ジュンが赤い瞳を持っていたならば、もしかしたらもっと完璧なキーパーになっていたのではないかと、サナは心の奥底で思っていた。
この思いは、一方でサナ自身に対する焦りや不安も引き起こしていた。ジュンが自分の力で、合獣との信頼関係を生み出しているのに加えて、ただの人間が赤の瞳という特殊な視線や能力を持っているのに、バトラに対する信頼を築くことができない自分を責め、ジュンとの差異を感じていた。
しかし、サナは心身の成長とともに、いつまでも意地を張るほどの幼稚さを捨てていた。ジュンと比べた時の自分の無能さに打ち拉がれながらも、自分のすべきこと、やらなければいけないことを受け入れるだけの度量を持てるようになっていた。ジュンの真っ直ぐな態度にも心を打たれ、少しずつバトラとの関わりを取り戻していった。
静けさが小屋を包んでいた。ジュンの声が響き渡り、サナはステラから慎ましく降りた。
「今日の訓練はここまでにしよう。君とステラのコンビネーションはすごい進歩だよ。」
ジュンの声に温かな気持ちが宿り、サナは小屋へと向かった。中に入り、ステラに微笑んで頭をそっと撫でた。ステラは子猫のように身を寄せて、その体に身を預けながら抱擁し感謝の気持ちを伝えた。
訓練が終わり、夕食の支度のためにジュンとサナは小径を歩きながら街に向かっていた。遠くからざわめく声が聞こえ、街の方向には人々が駆け寄っているのが見えた。
「何か揉めているのかな」
サナが不安そうに言うと、ジュンも顔をしかめた。最近はこんな騒ぎが絶えない。
街に近づくと、小さな移民の子供が何かを抱えながら大人たちに取り囲まれているのが見えた。どうやら盗みを働いて罰せられているようだった。
ジュンは憤慨した。移民としてこの街にやってきて、彼自身の昔の姿と重なった。その場に飛び込もうとしたところ、近くのおじさんが手を挙げて制止した。
「この辺りは最近、こんなことばかりだよ。見せつけないとわからない奴もいるんだよ。」
そう言っておじさんは争いの中心に入って、何やら大人同士で話をつけて、取り囲んでいた大人たちは退散していった。揉め事が終わると周りの人たちも関心を失ったようで、いつもの日常に溶け込んだ。
サナとジュンは慌てて少年の方に近づいた。
「おい、君。何があったんだ?」
ジュンが尋ねると、少年は困ったように言葉を詰まらせました。
「母さんが…体調が悪くて、お金もなくて。もうどうしたらいいか分からなくて・・」
ごめんなさい、ごめんなさいと言いながらその場を逃げるように走っていってしまった。
「全く酷いことをしよるな」
おじさんは少年の姿を見ながら呟いた。
「彼が盗んだパンがいくらするか知っているか?」
香ばしいパンの匂いがあたりを漂っていた。その匂いがサナの鼻をくすぐる中で、ジュンは小さく首を振った。
「ちょっとこっちに来てごらん」
おじさんが手を招くようにしてパン屋の前まできた。
「このパン一つで大金貨1枚だ。」
「高い!こんなの、私たちの小遣いじゃ買えないわ。」
サナは驚きで声を漏らした。
「そうだね。ひと昔前なら鳥肉を丸ごと一匹買えたものが、今ではパンしか買えないんだ。このご時世、小麦が高騰しているし、近くで紛争が絶えず流通にも支障が出ている。食糧にも影響が及んでいるから、物価も上がってしまっているんだ。」
おじさんはため息交じりに語った。
2年の間に街の雰囲気はずいぶんと大きく変わっていた。紅藩王国からの移民が急増し、それに伴う困難がこの地にも広がっていた。
「なんで紛争が起きているの?食糧が少ないならばみんなで分け合えばいいのに」
サナは純粋な疑問を見知らぬ男性に向けた。
「小麦の主要な生産地である紅藩王国が大規模な干魃に見舞われているんだ。政府はそれに対処できずにいて、税金を使ってもなかなか改善されない。その結果、政府に対する不満が高まり、去年から内紛が勃発している。それが各地に広がりつつある。今回のは近くの流通路での紛争だ。」
おじさんは話を続けた。
「そのせいで難民、移民が増えてきている。ここだけの話だが移民が増えたことで仕事を追われている人も増えてきている。あの通りを見てみな。みんな仕事を失った人だよ。」
サナは振り返ると、ホームレスのような、ぐったりと力をなくしている人たちを見かけた。その中には自分より小さな子供も混ざっていた。
「この辺では、孤児も珍しくなくなって来ている。世界がみんなお前さんたちのように勇敢で優しければ、少しはマシだったかもしれんが、現実はそうではない。紛争が起きてたくさんの人が死に、多くの人が飢餓や病気で苦しんでいる。世界っていうのは残酷なもんだよ。戦争が始まる日も遠くはないかもしれないね。」
失業率の増加は社会に不安定さをもたらし、治安の低下に拍車をかけていた。街の中心部では、以前より人々が焦りと不安の表情を浮かべて歩く様子が見受けられるようになった。
(外を見れば、あんなにも美しい氷の世界が広がっているのに・・)
とサナは思わずにはいられなかった。この世界に覆う薄暗い何かが、世界を包み込んでいて、人を暗澹たる気持ちにさせているようだった。この美しい世界を灰色の雲が覆っているように、紛争というものが人々の目を暗く曇らせていた。
「サナ、行こう」
ジュンはサナの手を引きながら、その場を後にした。サナは振り返りながら小さくお辞儀をすると、おじさんは手を降った。
「サナ、あまりさっきの話には耳を傾けるなよ。事実もあるだろうが、戦争なんてここ何百年も起きていないんだ。適当なことを言って。」
サナは小さく頷くことしかできなかった。
必要なものを買い、外に出ると白く被った山々の稜線を日差しが真っ赤に染めあげ、それを地平線まで雪があたり一帯を全て反射させていた。その中を人や獣が翔けて、夕闇の中に消え去る様子を歩きながら見ていた。
サナは歩きながらおじさんの言葉を反芻していた。
(世界っていうものは残酷なもんだよ)
この世界は美しい、
もう少し時間が経てば、あたりは深い群青に染まり、やがて一番星が顔を出す。世界は宇宙と一体になり、自分達はこの小さな星の小さな存在でしかないことを実感する。
それでも世界の優しさに包まれて、悲しくても孤独さを感じることはなかった。
(もし私が戦争に巻き込まれたら同じように人を平気で殺すのだろうか)
バトラはその存在自体が戦争に巻き込まれる運命だった。いざ、本当に戦争が起きたら、政府はバトラを使うことを躊躇わないかもしれない。戦争の道具として使わないことを私たちがどれだけ決意していても、政府の言うことは絶対であったし、身を守るためなら戦わざるを得ないこともあるかもしれなかった。その時私は身を守るために誰かを傷つけ、殺すのかしら。誰かのためになら人は殺していい理由になるのかしら。
サナはフッと笑いが込み上げてくる気持ちだった。
(世界はこんなにも美しいのに、私はどうしようもなく腹黒い。結局は自分のことしか考えていない。人は残酷な運命に導かれた生き物なのかしら)
それでも、それでも人は戦わない道を探らなければならない。私たちは言葉で解決する力を持つ知恵のある生き物だもの。合獣が私たちの心に敏感なように、きっと人にも不安が伝播していくんだわ。明るい希望があれば、きっと人はそれを頼りに生きていける。
サナは一歩一歩力強く噛み締めながら、帰路を辿った。
サナは家に帰ると、重い扉を開けると同時に心地よい温かさが彼女を包み込んだ。台所ではエマが夕食の支度をしている最中で、料理の匂いが充満していました。サナは疲れた体を椅子に沈めながら、心の内に渦巻く疑問を口にした。
「私も戦わないといけないのかな?」
エマは驚きでしばらく料理を手にしたまま立ち止まり、サナを見つめた。その瞳が不安そうに訴えていた。
「あなたはまだ幼いし、戦う必要はないわ。」
サナにも聡れるほどには情勢が悪化しているのだとエマは考えた。
「あなたがバトラとの関係のことを言っているなら、カイルがちゃんと守ってくれる。自分の身を守る方法を教えてはいるけれども、それは戦いに巻き込むためではない。むしろ戦いから自分を守るために、あなたを訓練に連れていっているの」
サナは不安を隠しきれずにいた。夕食を終え、寝床に入ったサナをエマに優しく語りかけた。
「あなたはまだ子どもよ。でも、とても優しい子。この先も真っ直ぐに育っていってほしい。私はあなたが幸せでいられる未来を願っているわ。」
サナは母の匂いと温もりに包まれながら目を閉じた。
エマは優しい言葉と同時に、自身の葛藤がにじんでいた。バトラとの絆を深めることが、サナにとって幸せな未来を築く一歩になるのだろうか、果たしてバトラの世界に問題に巻き込んでしまったことが正しかったのか、という思いが彼女の心を揺さぶっていた。
(いざ、というときが来たなら私が・・)
エマは小さな寝息を立てる少女の頭を優しく撫でながら、密かな決意をしていた。
次の日朝起きるとカイルが、居間の椅子にどっしりと構えていた。その固い表情からサナはこれまでの生活は今日で終わってしまうのだということに気づかされた。妙な緊張感が頬を伝い、朝から冷たい汗が流れたところにカイルの口が開いた。
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