見出し画像

「書く」ってエクスタシー。

叩いて、粉々になるまで壊して。
そのかけらを拾い集めては、また作る。

僕はそうやって、「作品」を生み出す。


こんばんは。
金曜の夜。
今日は、僕が僕の気持ちを全力で吐き出す日。

良かったら、覗いていってほしい。
どうせ大したことは書いていないから。

今週の僕

まずは今週の振り返りから。
今週は、久しぶりに自分の作品と向き合う日々だった。

仕事中も。
寝る前も。
お風呂に入っている時も。

書きたい欲が抑えられず。
作品を書き綴った。いや、書き殴った。

これは、僕自身のストレスの表れでもある。

ままならない日常。
創作にすがり、自分の心を取り戻すための行いに他ならない。


もちろん、作品そのものと向き合うときは、
そんな気持ちは忘れている。

なんて言うんだろう。
エネルギーだけをもらっている感覚だ。


明鏡止水の心持ち

僕は。
Kindle作家として多少の収入を得ている。

本当は、もっとたくさん書いて、
出版して、収入を増やしたいのだけれど。

いかんせん、そういうことは向いていないような気がしている。


なんていうのだろう。

書きたいときには書くし、
書きたくないときには書きたくない。

僕の心の中の執筆担当は、
そんな、ちょっと困った子だ。

僕自身は、
そんな自分の気持ちに振り回されがちな人間なのかな、
と自己分析をしている。


書きたくないときには
何を書いてもつまらないし、
無理して書いても納得できない。
だから書かない。


なんだろう。
集中しているときの
明鏡止水の心持ちで書くのが、

僕にとっては
エクスタシーを感じる行いなのかもしれない。

そんなタイミングでなければ、
書きたくない、書けないというのが本音だ。


そんなことを思いつつ、
作品と適度に距離を保つ。


そう。
話はかわるが、僕は創作において、
作品との距離感みたいなものを最近感じるようになった。

悪く言えば、大した才能はない、と言うことなのかもしれない。
あくまでもポジティブに悪く言った場合。


作品と作家のイイ関係

僕は、執筆において重要だと思う。

ばーっと書き上げた状態、
つまり初稿とか、第一稿というのは、
僕にとっては、
住み始めたばかりのアパートの隣人みたいな感覚。

もちろん、熱を込めて書きたいことを書いたものだし、
決してよくわからないものではないはずなのに。

どこか、他人行儀に感じる。
この感覚は実に不思議だ。

父親が我が子を本当に自分の子だと確信できない、
みたいな気持ちってこんな感じなのかもしれない。


純粋無垢な赤子同然の我が子は、
僕にどこか他人行儀な現実を突きつける。


ここからが長い。

あらゆる知識を総動員し、
僕の心と頭からひり出された存在を、
ああでもない、こうでもないと。

もみくちゃにして、
汚し、
磨き、
ときには無に還して、
そして、
現実の誰よりも大切に扱い、
育て上げる。

こうやって僕の作品は出来上がる予定だ。

そうして出来上がったものを、
世間一般の荒波の中に
ぽいとぶん投げる。

あとは野となれ、山となれ。

僕は見守るのみだ。


今回のテーマは「セラピー」

新作のテーマは、セラピーだ。

つまり。
「心を楽にする」方法を書く。


人によっては劇薬で、
現代だからこそ生まれた概念。

おそらく、多くの人が気づいていながら、
うまく言語化できていないことを
ひねくれた心持ちで書いてやろうと思っている。

ものすごいありきたりのようでいて、
僕の目線から見たその「世界」を。

ぶつ切りにしてならべ、
舟盛りにして提供する。

最終的にどんな作品になるかはまだわからないけれど。

全身全霊で向き合っていく所存だ。




今日はここまで。
読んでくれてありがとうございました。

よしなに。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?