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アートを知らない私が美術館でしていたこと

アートと関わりのない環境で育ったけれど、学生時代から美術館が好きだった。というか美術館に通う自分が好きだった。文化に興味があることをカッコイイと思っていて、自分もそうありたかった。

美術館に行く自分カッコイイという理由だけで美術作品と対面する日々を経て、私の芸術への興味は増し、のちに現代アート業界に転職することとなった。転職してからは、自分がいかにちゃんと作品をみていないか、無知であるかを思い知らされた。でもそこから学べば学ぶほど、美術鑑賞は豊かになった。

しかし学生時代の私は、美術館で作品をロクにみもせず、一体何をしていたのか?何があって、アート業界に飛び込むほどにアートに惹かれることになったのだろう。

予定のない週末が近づくと、開催中の展覧会をチェックした。有名な作家(近代美術の巨匠など)の個展と、現代美術の個展やグループ展を主に選んだ。巨匠には歴史のお墨付きがあり、足を運ぶ価値があるという安心感を事前に得られた。そして現代美術は、なんかカッコよかった。

作品のみかたがわからなかったから、展覧会場では多くの人と同じく、キャプションをしっかり読んだ。エイジズムにより、作家が何歳の時にこれを描いたかを頭の中で計算した。きれい、とか、かっこいい、という感想がときおり頭をよぎるが、それ以外は特に何も考えていなかったと思う。確かに「よくわからないものを黙ってみる」という美術館独特の時間も好きだったのだけど。

そんな状態で展示室を出て、ミュージアムショップで図録を立ち読みし、テキストに納得して完了。「話題の展覧会を観た」というバッヂを手に入れ、友達に「あの展覧会みた?良かったよ!」と話したものだ。思い返してもがっかりするけど、ほんとこんなもんだったなぁ。

そんな見方が少し変わってきたのは、大学を卒業して働き始めてから。取引先に大変センスの良い年配の男性がいた。ある日その方とおしゃべりをする中で、センスの磨き方に話が及んだ。「ぼくは子どもの頃から、『この中でどれが一番好きか』を決めることにしてるんです。」それは提示された選択肢の中から選ぶだけではなく、手に入るもの入らないものに関わらず、空間の中で自分にとっての一番を選び、「これが僕の一番だ」と心にの中で明言することだという。一番を決めるとなると人は急に真剣になる。ものの見え方は変わり、色んな要素が気になるようになる。そして「これだ」と腹を決めることが大切なんだ、と。

それ以来、展覧会で「一番好きな作品」を決めるようになった。そうすることで自然と、キャプションではなく作品自体をよくみるようになった。そして全ての作品を詳細にみようとするのではなく、展示室をざっと見回して、気になったものだけをじっくりみるようになった。この作品では何が表されているのかを考えるようになり、いつしかなぜそれが好きなのかを自問自答するようになっていた。作品を通して作家と対話をするようになり、自分のことも発見するようになったのだ。自分なりの感想を持てるようになった。それは芸術の専門家や愛好家からするとてんで稚拙な感想だったけど、自分で腹落ちしていることが大切だった。

そうするうちにアートがますます好きになり、多少なりとも情報収集するようになり、アート業界で働くようになった。いま私が文化(アートに限らず)から享受しているパワーや喜びは計り知れないし、自分の考え方はいつもそこから影響を受けつつ形成されている。そんな文化との付き合い方を気に入っている。「文化に興味があるのはカッコイイ」という理由で美術館に通っていた、あの頃わたし。ありがとう。そのカッコつけのお陰で、いまアートを楽しめる自分がいるのだ。

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