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宮﨑さん、ありがとう。「君たちはどう生きるか」

初見で大衝撃を受けて以来、ふとした時に「君たちはどう生きるか・・・?」と自らに問うて過ごしている。

2度目の鑑賞を終えて、感想を書くことに決めた。観終えたときの「宮﨑さん、ありがとう(涙)」というはかりしれない感謝の気持ちと、彼が突きつけてくれた「君たちはどう生きるか?」という命題を覚えておきたい。*ネタバレありです

頼れるのは、自分の頭と身体。

序盤から長らく、主人公眞人の表情には生気が無い。それが一転するのが眞人が弓矢を作るシーン。画面のスピード感も音楽も急に変わる。眞人は頭をひねりつつ、身の回りにあるもので試行錯誤を重ねて弓矢を仕上げる。その直後に母が遺してくれた本「君たちはどう生きるか」を見つけ、没頭する。
信じられるのは自分の頭と身体。人生の喜びは手を動かすことと考えることにある。宮﨑さん自身もそうやって生きてきた人で、彼によって生み出された作品とともに私たちは育ってきた。このシーンだけでも「君たちはどう生きるか」という問いが突きつけられている。

下の世界の生きもの

「ここでは全てが幻。生きている奴の方が少ない」「奴らは殺さない。殺すのはあたしの役目」と言うキリコ。宮﨑さんは、「下の世界」と「私たちの生きる現代」とを重ね、揶揄しているよう。
キリコ・・・現代では稀な、自分の頭で考え、手を動かして生きている人。
幻・・・現代人。現代人には生きている奴が少ない。現代人は自分で手を動かさない。生活で使うものも食べ物も、全部他人が用意したもの。
ワラワラ・・・子ども、または未来への希望。無垢で、与え守られるべき存在。キリコの助けによって人として生まれるべく「上」に上がっていくが、全員が昇華できるわけではない。
ペリカン・・・これがスッキリしないのだけど、この現代の「何かがおかしい」と気づいている人なのかな?

判断基準は自分

眞人がキリコと出会ったばかりの場面、二人で船を漕ぎながら、眞人は「下の世界」に夏子を探しに来たと話す。キリコが眞人に「お前その人のこと好きなのか?」と問う台詞が胸に刺さった。自分が好きかどうかを知ったうえで物事に対峙できているのか?好きなものをそばに置くことは、自分を喜ばせ大切にすることだ。判断基準を自分に据える。自分のために生きる。その単純で重要なことを示唆するセリフだった。

母と父と、自分

新しい母との関係の構築。初回の鑑賞では序盤、夏子を疑いながら観てしまった。相手を信用できないという眞人の気持ちに寄り添うことができるつくりになっているのかもしれない。話が進むごとに夏子の思いやりに触れ、眞人も鑑賞者も心をゆるしていく。最後に皆で塔を飛び出して現実に帰ってきたとき、夏子がオウムにフンをかけられながらも「可愛い」と笑顔で喜ぶシーンに心の美しさが現れていて、眞人のこれからの人生の希望のひとつとなる。

一方で父親は、序盤から結構嫌な奴。明るくて豪快な成功者だけど、戦争が激化して多くの死者が出ていることに「お陰で繁盛している」と言ったり、車で眞人を学校へ送迎することでひけらかしたりと鼻につく。戦時中の権力者はこんなもんだったのだろう。眞人は賢い少年だが、父が工場から持ち込んだ戦闘機の部品を見て「美しい」と言えてしまうほど父や時代の価値観を引き受けている。血のつながりから、眞人は父を受け入れているように見える。しかし成長につれ、二人の価値観は相容れなくなり、父は乗り越えるべき存在になるかもしれない。

眞人はまだ子どもで、この映画では親が大きな存在として描かれている。けれど彼自身が大叔父に言ったように、彼はきっと自分と価値観の合う友達をつくるだろう。まだ見ぬ仲間に希望をつなげる。いま現在の人間関係に難しさを感じる若い鑑賞者にとっても、希望が感じられるシーンだ。人を受け入れる賢さとわかり合う優しさを持ち、助け合う。そして上述したように、自分の好きを信じ、手を動し、頭で考える。これが私たちが生きる道しるべなのかもしれない。

どうせすぐ忘れるさ

最後の場面でアオサギが、「お前、下でのことは忘れろよ」と眞人に向けて繰り返す。これは鑑賞者に向けられた言葉だった。私たちは忘れるようにできている。この物語で得た衝撃を、胸の内の決意を、きっと忘れてしまうだろう。宮﨑さんは「どうせすぐ忘れる」と諦めつつ、できれば忘れて欲しくないというわずかな望みを、アオサギを通して私たちに託している。

表現者はパラレルワールドを持っている、のでは?

話は変わるが、前回のアカデミーで多数の賞を獲得した"Everything Everywhere All at Once"は、主人公が過去の数々の分岐点に立ち戻り、別の道を選んだ自分が生きるパラレルワールドと現実の自分とを行き来するというSFだった。わたしはこの映画で制作者たちの創造力に感銘を受けたのち、たまたま新聞で村上春樹のインタビューを読んだ。村上氏は「学生時代から経営していたJazz barを今もやっていたら、とよく想像する。今でもその自分が別の世界で生きている気がする」ようなことを語っていた。表現者たちはパラレルワールドでも生きていて、そこから作品を生み出すのだな!と一種の真理を見た気になった。

「君たちはどう生きるか」のストーリーもパラレルワールドの構造になっている。眞人は現実で関わる人が、「下の世界」で違う形で生きているのに出会う。現実における常識はパラレルワールドでは通用しない。心にパラレルワールドを持っている表現者たちは、わたしたちが生きる現実をパラレルワールドの視点から見つめ、疑う。宮﨑さんは現実の価値観を持つ眞人をパラレルワールドに放り込むことで、鑑賞者に対して「本当に世界を信じていて良いのか」と問いを投げかけた。

数々の強いメッセージが込められている本作品は、宮﨑さんの私小説的な感覚を受けた。もしかすると眞人はパラレルワールドで生きる宮﨑さんかもしれない。そう思ってしまうほど、本作は私的で、熱を帯びていた。

おわりに

以上、思いつくだけざっと書きだした。
この作品にはあまりに多くの要素が散りばめられている。観る人それぞれが、いま自身が抱えている悩みに対する、何らかの答えを見つけだせると思う。私が変われば観えかたも変わる。だから人生で何度も観たい、いつも頭のどこかに置いておきたい、そんな映画だった。

眞人の闘いを見届けながら、悪意を赦したくない、頭と手を動かし、いつも自分と向き合って生きていたいと強く思った。わたしはこれからも、心の中で「君たちはどう生きるか?」と自分に問いながら日々を送る。

宮﨑さん、こんな作品をこの世に贈り出してくださり、本当にありがとうございます。

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