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【ショートエッセイ】阪神・淡路大震災 テント住まいの長田の老女

 Net De 連想コラム「大谷翔平《ドライブライン》~能登半島地震《災害トイレ》~強制移住」という原稿でも書いたのだけれど、わたしは、1995年に発生した阪神・淡路大震災の現場で短期間ではあるけどいろいろな人にインタビューをした。

 ある人からは、火事が起きて火の中から、「たすけてくれえ」と叫ぶ声を聴いた話なんかをさんざん聞かされ、こんな話は書きにくいなと思ったりしていた。わたしが書いていた媒体は、刺激の強い話はご法度だったのだ。

 そのとき、長田区に住む80代の老女にも話を聞いた。その人は、もともと広い敷地の家に住んでいて、その敷地内の自動車が6台程度は止められるほどの空き地に、テントを立てて生活をしていた。幸い自主避難する環境がそろっていたのだ。

 テントの外には、火鉢や座椅子があり、その他、段ボールや木箱がおいてあった。おばあさんはしっかりしていて、はきはきとわたしの質問に答えてくれた。

 物はいまのところ足りている。いろいろな人がたまにやってきては食べ物やら、飲み物やらを置いていってくれるから、不安はない。そのうちスーパーなんかも開くだろうから、それまで辛抱する。風呂にも入りたいけど、下手に温まると冷えた時に風邪をひくかもしれないから、いまのところは、水のいらないシャンプーを使ったり、タオルを使って体の一部だけ拭いている。トイレは近くに自衛隊さんが簡易トイレを設置してくれたから、それを使わせてもらっている。

 震災は1月17日に起きた。だから寒さ対策が喫緊の課題だった。おばあさんはテントの中にいれば、そんなに寒くはないと言って笑った。

 彼女を紹介してくれたのは、地元のケースワーカーの女性だった。その女性は、わたしの質問が一段落すると、おばあさんに向かって、熱心に施設に入って避難生活をしないかと誘った。というより、説得していた。

 「ここにいられたら、わたしたちもそれほど頻繁には様子を見にこれない。ご家族もいないのだから、ぜひ施設に入ってほしい」

 ああそうか、ここに様子を見に来るのもほかの仕事が忙しくて大変なのだな、とわたしは心の中でうなずいた。

 年寄りは特に様態が急変する可能性がある。こんなところに1人でいられては、いざという時に助けられない。そのケースワーカーが言いたいのはそういうことだった。

 しかしおばあさんは、絶対に折れなかった。ケースワーカーに何度も「ありがとう」といいながら、わたしはここにいます、ときっぱり言った。

 「わたしが死んでも誰のせいでもありません。そのときはごめいわくかけるけど、始末してください」

 それを聞いてケースワーカーの女性は、そんなこと言わないでぇと、悲鳴をあげたが、おばあさんはにこにこしているだけだった。そしてケースワーカーと話している間、彼女をカメラで撮り続けていたわたしに、もうやめてと言った。

 わたしはおばあさんの名前も覚えていない。東京に帰ってからも、ケースワーカーの女性に連絡すればあのおばあさんの様子くらい聞けたはずなのに、一切、連絡をとらなかった。震災から半年後くらいに、もう一度取材をして、原稿を書くチャンスもなくはなかっただろう。その時にまたあのおばあさんの消息を追いかけることもできたはずだ。でも、わたしはそんな企画提案をしなかった。

 取材後東京に戻り、その時の原稿を書き、上司にさんざん直させられて、へきえきしながら、どうにか校了して、仕事を終えた。それだけだった。

 出来損ないの雑誌記者は、おばあさんの住所も控えることなく、ケースワーカーの女性にお礼の手紙も書くことなく、飲んだくれて仕事の不平不満をいうだけの生活に戻っていった。長田での取材のときの何とも言えない、やるせなさはすぐに過去のものとなった。

 なのに、とこかで地震災害が起きると、わたしは、あのおばあさんのことを必ず思い出す。30年近く昔の話だ。もう、彼女は亡くなっているだろう。それなのに火鉢の前でぽつんと座っているおばあさんの姿がぼんやり浮かんできて、少し涙を流してしまうことがある。

 いまごろになってそんなおセンチな気分になっている自分がとても恥ずかしい。ごめんなさいと、いろんな人に謝りたい。たとえ遅すぎても。

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