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「こだわり」と「ひとりよがり」の違いってなに?

Twitterスペースの哲学対話でこだわりと独りよがりの違いについて話した。

「こだわり」は多くの場合ニュートラルか、あるいは価値を持つものとしてあつかわれる(例えば「職人のこだわり」)。一方で「ひとりよがり」は明らかにネガティブな意味合いで使われる(例えば「ひとりよがりな価値観」)。でも両方とも、何か(をすること)に固執するという意味では同じ。この二つはどういう関係なんだろうか?

まずこだわりは他者を必要としないと言えるんじゃないか。自分が青にこだわるのは自分が青が好きだからで、それはあなたには関係ない。

一方で独りよがりは他人に押しつける側面を持つ。この世で一番美しい色は黄色なんだからあなたも黄色い服を着なさい、はひとりよがり。

またこだわりは理由を持たないことも多い。私がマクドナルドのセットドリンクを毎回コーラにするのは何となくで、別に理由は無い。しいて言えばハンバーガーが食べやすい気がするから、でもそれも自分だけかもしれない。

一方で独りよがりは当人が明確な理由を持っているし、だからこそ押しつけが発生する。「科学的に考えてジンジャーエールに含まれるショウガの消化酵素がハンバーガーの油の消化を促し云々…」(知らんけど)という信念を持つ人は、それを理由にジンジャーエールを他人に飲ませる。

でもここで一つ考えてみたい。上のようにジンジャーエールに関する信念を持っている人をAさんとして、その人にジンジャーエールを飲むように言われる人をBさんとする。もしかりにAさんにジンジャーエールを飲むように言われた人Bさんが、その科学的主張に大いに同意し、それならばコーラなどではなくジンジャーエールを飲まなければ!教えてくれてありがとう!となった場合はどうだろうか。そのときAさんの行為は、もはやひとりよがりではなくなるのではないか?

そう考えるとある人の行為がひとりよがりかどうかは、その行為を受け取るひとがどう受け取るか次第なのではないか?先ほどのAさんの行為は多くの人にとってひとりよがりかもしれないが、少なくともBさんにとってはひとりよがりではなく、正当な(?)こだわりということになる。

人には誰しもこだわりがあるが、(上の青色の例のように)多くの場合それは自己完結している。ただそれが他者と関わるとき、相手の受け取り方によってそれがこだわりになるか、ひとりよがりになるかは変化すると言える。

このことから次のような考えを導くこともできる。私たちは人の何らかのこだわりに対して、それをこだわりと受け取ることもできるし、ひとりよがりと受け取ることもできる。言い換えれば相手を「こだわらせる」こともできれば、「ひとりよがらせる」ことも思いのままなのだ。

そもそも私たちを「ひとりよがらせる」ものとは何だろうか?それは(全てはそうでないとしても)自分の内面化した、社会において何が良くて何が良くないかという価値観に過ぎないこともあるのではないか?私たちは社会的に共有された価値観を共有することもあれば、それを拒絶することもある。そしてそれが私たちを私たちならしめている。

だから相手がひとりよがりだなぁ、と思ったときは、自分が相手を「ひとりよがらせている」のではないかと疑うべきかもしれない。それによって相手を独善的でひとりよがりな人から、なんか面白い「こだわりのある人」に変えることができるかもしれないのだ。


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