宝飾時計
舞台「宝飾時計」
劇場:東京芸術劇場(プレイハウス)
新年初観劇。
観劇を決めたきっかけはキャストさん。
高畑充希さん、成田凌さん、小池栄子さん、伊藤万理華さん、、、
とにかく豪華。見たことある人ばっかりで、有名な人たちのお芝居ってどう違うんだろうなと思って絶対観ようと思った。
こんなにも軽い気持ちがきっかけで観に行った舞台だったけど、本当にとてつもないものを観せられてしまったね。
最初に保険をかけておきたいんだけど、この作品の解釈に僕の人生の経験値は足りてなくて、どう解釈したらいいか分からない部分が多かった。
とてもすごい作品を観たことや考えさせられるテーマがそこにあるのは分かるのに、どう解釈したらいいか分からない。
悔しい。
でも、舞台って今この時にしか観れなくて、観た時にあった空間は二度と戻らなくて。たとえ映像化されたとしても、今日観たものの大部分は失われてしまう。
この作品をまた成長した未来の自分で観てみたいと思ってしまった作品だった。
だから、今の自分で書けそうなところを今から書いていこうと思います。
まず、東京芸術劇場の造り。
内装がとってもオシャレ!
壁が赤いレンガっぽい感じになってて、落ち着くというか、やっぱりオシャレな?気分になった。
座席も今日は1階後方だったけど十分観やすかったし浸れた。
前もってネットで調べた時も評判良かったから期待通りって感じだった〜。
GYPSYも同じ劇場なので安心して観劇に行ける!
Good👍
作品について、慎重に、今の自分にできる限りの妄想をふくらませながら、触れていく。
【簡単なあらすじ】
もうすぐ30歳になる松谷ゆりか(高畑充希)は10歳から29歳まで同じ舞台の同じ役を続けた奇跡の子役で、何故か身長が当時から伸びていない。
現在は彼女自身のマネージャーの大小路祐太郎(成田凌)と付き合っており結婚など今後の人生も考えるようになる年齢に、、
そんな中舞台の20周年を記念した公演で歴代キャストが集まることになり彼女を含めた舞台の初代キャストも集まることになった。
当時ゆりかとトリプルキャストを組んでいた板橋真理恵(小池栄子)や田口杏香(伊藤万理華)、プロデューサーたちと久しぶりに楽屋で一緒になると、昔に亡くなった子役の勇大(小日向星一)の話に。
ただその子のことが好きだったゆりかは今でも生きていると信じていて、、
という大体そんな話。
まず開演前、席について、音楽がかかってないことに気づいた。
大体舞台やミュージカルって開演直前までその作品の雰囲気にあった音楽が流れていることが多いんだけど、かかってなかった。
なんでだろう?って考えたけど、作家さんの、舞台に先入観を持たずに観て欲しいっていう思いからなのかなと思った。
音楽がかかってるとその舞台の雰囲気は表現できるし自然と舞台に入っていける環境が整うけど、逆に言えば作家さんの思い描く雰囲気のとおりに全員が感じて誘導されてしまうからね。
そうじゃなくて、この作品を観た人それぞれが感じたものを大事にして欲しいという思いがあったんじゃないかな。
あとは役者さんたちのお芝居をダイレクトに伝えるためかな。
さっきも言ったように音楽がかかってると気づかないうちに雰囲気が刷り込まれて、ある程度作品の方向というか感じ方が制限される可能性はあるのかなって思ったから、それを無くしてフラットな状態で役者さんのお芝居を観てもらいたかったのかなとも思った。
そう。共通して言えるのはフラットな感じで作品を観て欲しいんじゃないかってことかな。
開演前に思ったことは以上。
ここから本編や役者さんの話。
触れておきたいのは高畑充希さんのお芝居。
これは触れられずにはいられない。
こういうことか.....って思った。
なんで高畑充希さんが有名で、よく観る役者さんなのかが分かった。というか分からされた。
今まで映像作品でしか観たこと無かったからお芝居の仕方は今まで観てきた想像の中の充希さんと違ったけど、迫力すんごい。
というか映像作品と舞台作品でこんなに違うお芝居が出来るんだってこともめちゃくちゃ感動したよね。
今回は充希さんのために作られた舞台みたいだったから充希さんのセリフ量がエグくてたくさん惹き込まれたんだけど、一言だけで空気が変わる瞬間があったり、なんでもないお芝居で鳥肌が立ったり、1階後方の自分の席でも感じる迫力がビシビシ伝わってきた。
歌唱もそう。2幕最後に「青春の続き」っていうテーマ曲の独唱があるんだけど、それはもう、半端なかった。ただただ感じる迫力から鳥肌が止まらなくて、悲しくもないのに泣きそうになった。あの時どんな感情だったんだろう自分。でもなにかの感情が動きすぎて泣きそうになったんだよな。
人ひとりが出せるエネルギー量超えてたね。
舞台上はほぼセットが変わらず、会話劇。
会話の中で過去と現在が何度も入れ替わっていく不思議な作品だった。
相当考え込んで作られた作品だなって感心してしまった。頭ごっちゃごちゃになっちゃいそう、、笑
でもその中にも色んな仕掛けがあって、答え合わせがあって、あぁ!って何度も思わされた。
1幕ではずっと時間が交錯してついて行くのに必死だったけど、2幕ではだんだん主人公のゆりかと勇大(祐太郎)の話にフォーカスされていって、ここからがこの作品の本番?というか大事なところだよって示してくれてるような感じだった。
でも意外に思ったのは、結構考え込んでしまうような、もどかしいような、辛いような、そんな感じのシーンが続いても、早めにコミカルなシーンが入ること。
観ている側が息を飲んでしまうような大事なシーンでも急に笑いを入れてくるようなところが何個もあった。
こういう作品は浸って、ずーーんってなって考える時間も好きだったりするから、そこに割って入ってこられるみたいで自分は結構もどかしく思っちゃった。笑
でも、本当にしつこいくらいそんなところがあるから、なにか意図があるんだろうなって考えた。
自分なりの答えはこれ。
わざと観てる側が考えすぎちゃわないようにする構成にしてるってこと。
なんでそう思ったかと言うと、祐太郎が考えすぎて自分を表に出せない性格の人だから。
祐太郎は自分の思いを自分の中で整理できなくて、表現出来なくて、苦しむのね。それでゆりかにも辛い思いをさせるし。
でも、そういうところって誰しもあると思うんだ。自分の思いを相手に伝えたらどうなるか分からないから怖いとか、相手のことを考えすぎて逆にどうしたらいいか分からなくなるとか。
でも、そんなに考えすぎなくてもいいんじゃない?っていう根本さん(この作品の作家さん)からのメッセージなのかなって考えた。
そんなに考えすぎずに、自分の思ったように言ったり行動したりすることも、意外と良かったりするんじゃないー?って。
それを実際にやっているのが真理恵のマネージャーの関一(後藤剛範)で、いつもシリアスなシーンでも急に登場して空気を読まずに笑いを起こしてた。だから、考えすぎずにこんなんでもいいんだよっていう作家さんからのメッセージなのかなと。
僕はそう受け取った。
役者さんが小道具を持ってきたりセットを移動させたりする演出も印象に残った。
基本的なセットは変わらないんだけど、椅子だったり机だったりは移動させるところもあって、
普通の舞台は黒子さんがささっと出てきてやったりセットの後ろを上手く通りながら観客に見えないように移動させると思うんだけど、それを役者さんがやってた。
それもストーリーに差し支えないように自然にって感じじゃなくて、その人が居るはずのない全く関係ないシーンで小道具を持ってきて何も起こさず帰って行ったり。
斬新だなって思ったけど、これも作家さんの演出なんだよなって考えたらその意味を考えたくなった。
これは「このストーリーはこの登場人物たちだけで紡がれているストーリーなんだ」っていうこだわりなのかなと思った。
根本さんの作品を観るのが初めてだから、どうなのかは分からないけど、そうじゃなくても何かしらの意味はあるよなぁ。他の作品も同じようにしているのだろうか。気になる。
この作品の1番のテーマになるであろう所に触れる。
1番難しかった。どこからどこまでがテーマなのか、理解出来ているのかも分からない。
でも、1番考えたところ。
思いを伝えるということ。
さっきもちょこっと言ったけど、祐太郎は自分の思いを整理できずに、伝えたいのに伝えられずに、苦しむ。
子役の頃も同じで、「1番好きなものを人に言うのが恥ずかしい」これはゆりかとも分かり合えた部分で、自分の本当の思いを伝えられないことと共通しているところだと思う。
でも、ゆりかと祐太郎で違ったのは、“愛”においてもそれを突き通すのかどうかのところだったのかも。
ゆりかも祐太郎も大人になったけど、
ゆりかは自分に愛を伝えて欲しい。恥ずかしくても、愛だけは違う。ちゃんと本当のことを伝えて欲しい。愛する人とだけはそういう関係でありたいという気持ち。
祐太郎は大人になっても、たとえ愛する人の前であっても、自分の大事な気持ちを伝えるのが怖い。だから自分を偽ることで逃げてしまう。でも変わりたい。でも変われない。偽り続けてしまってきたから戻れない。だから苦しい。どうしたらいいか分からない。そんな気持ち。
どっちの気持ちも分かるなぁ。分かるけど。。祐太郎。。。
そんな気持ちで観てた。
誰にでもあるよなぁ。
伝えなきゃいけないけど伝えられないこと。
どうしたらいいか分からなくて、相手のことを考えすぎて、結局相手のためにならない意味のわからない行動を取ってしまうこと。
それが祐太郎なんだよな。難しいな。
でも、愛だけは違うよって。愛がある場所ではなんでも言って欲しいし、怖くても、伝えてくれれば受け入れるし、そうじゃなきゃ愛じゃないでしょ?って。あなたは私のことを愛してくれていないの?って。
悩んで、伝えてくれたのがゆりかだった。
この辺がこの作品の1番のテーマだったんじゃないかな。
でも、最初に言ったように、この作品を受け止めて、解釈するのには僕の人生の経験値が足りなすぎる。
この作品にはもっと大事なテーマがあった気がするし、それをもっと深く考えるためのヒントがもっとあった気がする。
観劇後になんとなーくの感情が残って、それが何なのか自分でちゃんと理解出来てない。
ほんと、悔しい。
こんな不十分で解釈間違いも多くあるであろうレポートを書いてしまっているのも恥ずかしいけど、今の自分が思ったことをまとめるのは絶対に大事だと思うから書いてる。
少し経験を積んで大人になった自分で同じ舞台を観た時、この作品から何を拾えるんだろうか。
でも、それが出来ないのが舞台。儚いね。改めて思い知った。
ただこの作品に今の僕が出逢えたことも絶対に無意味では無いし、ここから少しでもいいから何かを感じとってできる限りを考えることが大事だよね。
このレポートを通して色々考えることが出来た。
考えはまとまってないけど。とりあえずは。
またこの作品を思い返して何かを拾えればいいな。
珍しいことに台本がグッズとして販売されてたので買ったし、振り返ることもできる。
身の丈に合わない観劇経験というものを初めてしたけど、この作品は一生忘れない。
いい経験をさせてもらいました。ありがとうございました。
ーー追記ーー
もっと分かりやすくて大事なテーマがあったなと思って、書き足しておく。
誰かのために生きるということ。
ゆりかは勇大(祐太郎)のため。
勇大(祐太郎)はゆりかのため。
真理恵は家族のため。
杏香はお母さんのため。
それぞれ誰かのために生きていた。
でも、その人のためにどう生きるかが違ってた。
ゆりかは勇大を身長も止まるほどの熱量で愛し、19年間も同じ役をやり続け、さらには自分にも周りにも見える自分の中の勇大を作り出す。
愛する人に嘘をつかれても、いつか明かしてくれる時を待ち続けて、愛する人が目の前から消えても待ち続けて、待ち続けて、それでも最後には「生きていてくれて、ありがとう」と言える。
愛を頼りに自分と相手を信じて生きていた。
勇大はゆりかのことを想うが故に悩み、苦しみ、傷つきながら生きていた。
自分がなにに悩んでいるのか、どうすべきなのか、考えて、考えて、考えて。
結果相手のためにはなっているとは言えないけれど、ゆりかのために考えて、悩んで、苦しんで生きていた。
真理恵は結婚して、自分より大切なものができて、そのために生きる幸せや思考を手に入れたと言った。
自分が幸せになることよりも優先で、家族のために生きる。
たとえ旦那に不満があっても、自分が辛くても、誰かのために生きることの方が孤独に生きるより希望を持てると知ったから。
杏香はかつて母親の理想のために、自分を駆り立てて、どこかで無理をしながらも子役の活動に奮闘した。でも挫折。大人になってからは引きこもり。母親のためだけにしか生きてこなかったから、それ以外の生き方が分からない。
こうやってそれぞれ誰かのために生きていた。
誰かのために生きることにも種類があって、
愛を頼りに生きられる人もいれば、それに悩んでしまう人もいる。
誰かのために生きることで、自分の生きる意味を見出す人もいる。結局は“自分のために”、誰かのために生きるということかもしれない。
誰かのために生きることを強いられる人もいる。そうするしかないから誰かのために生きるということ。
それぞれの「誰かのために生きる」があって、どれが理想で正解なのかは誰にも分からないし、人によって変わると思う。
実際ゆりかは最後に「わたしが考え続けていたことが、すべて真実でよかった。」という。
一途に勇大のために生きた結果、自分はあんなに振り回され、苦しい思いをしたのに。
でも最後の勇大の言葉が聞けたことで、ゆりかにとっては今まで想い続けてきた時間が意味のあるものになって。それが分かったということだけで幸せで。その為だけに生きたことに後悔はなくて。
勇大のために生きたことはゆりかの中では正解だったと言えるんじゃないか。
無難に生きる真理恵は結局は自分のため、家族を作りそのために生きる道を選び、満足していた。
これもひとつの生き方で、彼女なりの「誰かのために生きる」ということの正解の道なんだと思う。
一方で杏香は幼い頃に母親のために生きたことでそれ以外の方法を見失い、引きこもってしまう。
彼女の人生にとっては母親のために生きたことが失敗だったということ。
誰かのために生きるということは、それ相応のリスクがあって、そのリスクを背負って生きられるか、またはそのリスクを受け入れられるかが大事なんだということだと思った。
杏香が母親のために生きることを強制され、挫折したことはひとつの結果であり、人によってはその道が正解であることもあると思う。
だから、この3人の生き方を見て、観る側が考えなければいけないのは、
誰かのために生きることは素晴らしいことなのか?
誰かのために生きることは必ずしも相手のためを思っていなければならないのか?
誰かのために生きることを強制されることは悪いことなのか?
この3つだと思う。
そして、その3つを考えた上で、
世の中にはたくさんの生き方があるけれど、
どんな生き方を選ぶかはあなた次第ですよ。
と言われてるような気がした。
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