透明の端くれとしての透析

透明というのには不思議な魅力がある。
突出した利便性や、冷たいや暖かいなどのわかりやすい要素を持っていないにも関わらず、老若男女多くの人を惹きつけてやまない。透明とつくものの多くには好ましい印象があり、その音を聞くだけでも、爽やかで心地の良い気分になる。だが、自分の知る限り一つだけ、“よくない透明“というものがある。
私はこどもの頃から腎臓があまりよくない。腎臓という器官は重症化がわかりづらく、たとえ何らかの障害があっても、若いころは痛みを伴わないことが多い。痛くなければ恐るるに足らずというのが幼年というもので、水分をとれとか、塩分をひかえろとか、そういう事など右から左へ流していた。
とある日、医者よりも母親がたまりかね、
「悪くなったら透析になるんよ」
と言ってきた。腎臓の機能が10%を下回ると、老廃物や水分の調整が出来なくなり、数日おきに病院へおもむき、数時間かけて人工的に血を入れ替える必要があるそうだ。それを聞いた私は子どもながらに恐ろしくなって、腎臓に気を使うようになった。
そういう厄介なイメージのある透析だが、その音だけを聴くとなんと美しいことか。トウですでに透明性を獲得しているのに、セキが入ることで涼やかで硬質な印象をもつ音になっている。だが実態は長時間の箱詰めである。
それでも透明(というか透)のもつ力のおかげで、透析というものに対する世間の印象は万が一ぐらいはかろやかになっているのではないか。透析のもつ、名と実態のちぐはぐさが、一周回って魅力のように思う。
余談だが、ポリバルーン(酢酸ビニル風船)を小さく膨らませ、片方半分を指で握り潰すと、腎臓のような形になる。これを2つ作り、腎臓と言い張るのが小児科に入院していた時の私の鉄板だった。同室の友達は笑ってくれなかったが、先生方には割とウケた事を記憶している。

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