(仮)エドリューション その11

 多様性ということを考えると、今の社会が抱える生きづらさということにも大きく関係しているかもしれません。例えば、現代の日本の若者の自ら命を絶つ割合が、先進国の中で一番になっているということですが、彼らを取り巻く教育制度一つとっても、江戸時代における寺子屋では不登校ということがありませんでした。しかしそれもそのはずで、生徒により入学時期もバラバラ、授業の内容も進度も個人で別々、先生の個性も経験も多彩ということであれば、システム上不登校ということが起こりえません。

 人が成長する段階において、また生きていく上での健康の維持において、体に必要な栄養や食事の量が各個人で違い、好みも人それぞれであるように、知識や教養といったいわば頭の栄養や心の栄養といったものも、本来人それぞれに特性や嗜好といったものが存在します。そうであるなら、その頭の栄養である学問や勉強といったものを、各個人の個性に合わせるという寛容さこそ、人本来が持つ多様性というものに基づいた教育の本来の姿であるといえないでしょうか。この流れでみると、校則を全部無くして成功したと言われる中学校の例も、現在の教育界からは一見奇抜な発想に見えながらも、本質的には人間本来の在り方に沿った、理にかなった方法論であると見ることができます。

 生態系のシステムにみられるように、自然の姿は本来多様性に基づいています。人の存在も本来は自然の一部分であるならば、人類が作り上げたこの社会というものも、多様性を持ち合わせることにより、そこに生きる人々は生き生きとした営みが出来るものです。しかしながら、今私たちが恩恵を受ける現代文明というものは、それらの対極に位置するテクノロジーや一元性というものに主導されて発達してきました。しかも本来それらの恩恵に浴する人そのものを、豊かで幸せなものへと導くものでなければなりません。なぜなら文明といえどもその本質は人間の道具だからです。

 その道具である文明や、科学技術、社会制度といったものが、生みの親である自然環境や、作り手である人を傷つけるというのであれば、本末転倒であるとしか言いようがありません。近年、現代文明が発達するに伴い、先進国ではあらゆる工業製品がいきわたりました。また、その発達を一面において促すことになった戦争も姿をひそめ、大量の町やモノが破壊されるという心配も遠のいています。それとともに物や商品を製造する現場でも、同じものを大量生産する体制では先が見えず、個人の好みや個性に合わせる多品種少量生産が主流になってきています。また、経済の分野においても、今の時代はモノの消費から͡͡コトの消費へ時代が変わりつつあるといわれる様子を見れば、文明の利器と、それらを利用する主人公である人類が、そのバランスを取り戻しつつある過程を示しているといえるのかもしれません。


#創作大賞2022

いつの世も 人の出会いは ゆくりなく 見えぬ糸にて 繫がれしか