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立庭和奈のこの言葉に響きあり 10その2

   この事を別の角度からお話ししてみましょう。良く戦争と平和は二者択一の概念のように語られます。それはあたかも破壊と創造のように、一定のサイクルで繰り返される現象であるということです。もしくは二項対立として、片方の極が平和な状態であり、もう一方が戦争の時期であり、世の中はこの間で行ったり来たりしている、そのな説も散見します。 確かにこのような論には一理あります。しかしそれはある一面の状態を物語ってはいるものの、本質的には間違いです。では一体何が、どう認識することが正解なのでしょうか。

   実は戦争とは文化(あるひとつの)であり、平和とはプリンシプル(原理原則)なのです。なぜそう言うことが出来るのかと言えば、この現象をロングスパンで観察すれば、納得をもって受け入れることが出来るはずです。例えば、古代ローマは絶えず蛮族の侵入に悩まされ続けます。肥沃なローマの文化的、文明的な果実は、持たざる者達の格好の獲物となり、彼等の侵略により、豊かで平和な日々は打ち破られます。東洋でも事は同じです。中国大陸においても大文明を築き上げた国は、常に周辺の国から狙われ、それとの対峙に悩まされることになります。しかしもし、それらの侵略者が勝利し、征服し、国や帝国の支配者となれば、今度は彼等自身が平和を享受するものとなっていきます。

   想像してみて下さい。平和だけの世界、平和な時期だけが続く世の中はあり得ますが、戦争だけの世界や、永遠に続く戦争はあり得ません。何故なら戦争で奪う富や肥沃な土地、殺戮する人や、破壊する建物などの社会基盤は、平和な時期が無ければ生産されません。もっと言えば、戦争をする兵士も、それらを率いる戦争指導者も、槍でも鉄砲でもいかなる兵器でも、戦争とは別の時期、別の場所で生産されます。どんなに好戦的な人達であっても、その指導者であっても、寝る時間もなく、食べる事なく、朝から晩まで来る日も来る日も戦争であれば「もうやめてくれ!」となりますが、南の島での争いの無い平和な暮らしは、何千年単位でも続行可能です。ボードゲームと同じです。藤井聡太さんでも、長丁場の対局の間、お昼を取ったり、スイーツを食べて一息入れたりするわけです。何日間にも及ぶ対局はあっても、何週間、何ヵ月はあり得ませんし、ましてや飲まず食わずではやがて将棋の駒さえ持ち上げられなくなります。将棋は文化的行為であって、日々の生活はプリンシプルだからです。

   今の2国間の紛争は、将棋を指していた二人が、胸ぐらをつかみ合った状態と見てみて下さい。盤をそっちのけに喧嘩が始まったのであれば、まあまあとなだめなければならないかもしれませんし、物をつかんで投げ合っているのならば、ぶつけられなように避けなければならないかもしれません。しかしそれを取り巻く仲裁者や、野次馬までもが、どちらかの肩をもって一緒に将棋を指す必要は無いはずです。途中でどちらかがイカサマをしたり、禁じ手を打っていたとしても、始めから盤面を凝視していなければ、口出しすることは火に油を注ぎかねません。二人が穏やかに将棋を指せば(理想ではあっても紛争以外の外交手段で国益を主張し合えば)良いのであって、回りの取り巻きも将棋そのものを打つ事は無いのです。もしかしたらどちらかがサクラとなって、将棋同好会のメンバーの増員を狙っていてるかもしれませんし、この対局自体が、将棋をオリンピック競技にしようと目論む、全世界将棋協議会のモニタリングかも知れないのです。二人が怪我をしないように、回りが被害を被らないよう配慮する事は大切なことですが、その目的に沿って尽力していれば、またはそれがすめば、それぞれが好みに応じて、快活CLUB にカラオケに行ったり、無印に買い物に行ったり、イオンにプリクラを撮りに行けば良いのです。今のニュースや報道、識者の意見を聞いているうちに、あなたもゆくゆく参加しなくてはいけないと思い始めていませんか。

   もう一度言います。

   日本よ将棋を指すな。
    
   
    

いつの世も 人の出会いは ゆくりなく 見えぬ糸にて 繫がれしか