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漫画の講師業を引退しました【その2】

(※1)漫画の神様・松本零士大先生とのお話

長い前置きですよ。



 約20年ほど前。
ご近所さんから「中学生の孫が職業調べということで、漫画家について聞いてみたいと言ってるんだけどお願いできる?」と頼まれたのでOKして、いくつかの質問に答えました。
その質問のなかに「あなたにとって漫画とは何ですか?」というものがあって、即答したのは「命の恩人」、でした。
 
 さらに遡ること、44年前(当時10歳)。
父の漕ぐ自転車の後ろに乗って、地元の(改装前の)サン書房という本屋さんの店先を通ったとき、可愛い猫の絵が描かれたコミックスが目に入りました。それがすっっっごく気になって、一度は通り過ぎた本屋さんまで戻ってもらい、駄々をこねてそのコミックスをゲット。
そのコミックスは「トラジマのミーめ」という、松本零士先生が描かれたものでした。
 
その頃は漫画といったら「週刊少年ジャンプ」「月刊少年ジャンプ」「りぼん」「なかよし」で、ギャグ・スポーツ・友情もの・夢見る少女のための漫画、みたいな内容のものを読んでました。
そんな私に、「トラジマのミーめ」の
 
猫が人を想いながら亡くなる・人が猫を想って亡くなる、別れる
 
という内容は非常に衝撃的で、愛しさと切なさと心強さ…じゃなく悲しさで、誇張ではなくティッシュの箱半分を消費するほど号泣しました。
(今もその時の気持ちを思い出し、ティッシュ2枚を使って涙と鼻水を拭ったところです)

 今以上に昔の私は負けず嫌いで「…この私をこんなに泣かせた松本零士(敬称略)、許せん! 私もいつか漫画家になって、私が描いた漫画で泣かせてやる!」という野望が芽生えました。
夢や目標なんていうフワッとしたものではなく、野望です。
 
 10歳の私は、近所の幼馴染の家との貧困格差・家の貧乏さと毎日の喧騒・田舎ゆえの親戚からの差別・学校や同級生との問題から人生が虚しくなり世を儚(はかな)み、カッターを手首に当てて力を入れかけて止める、ということを繰り返していました。止めてたのは、カッターの刃が錆びてて『このままじゃ切れないから、新しいのを買ってもらってからにしよう』という理由でした。包丁は使ったらお母さんに怒られる…と思って使わず。

 でも「トラジマのミーめ」に出会って野望が芽生えたので、それを果たすためにはどんな苦労も厭わない! 全てを漫画の肥やしにする! と、体内のマイナスエネルギーを活力に変換させる機能が生まれました。貧乏や家のゴタゴタについては、ふと「あれ、これって私のせいじゃないよね?」と気付いて、そこから気にならなくなりました。学校や同級生の問題も、野望の前には道に落ちてるガムくらいの、どうでもいい感覚になって助かりました。
中学のとき「漫画家を目指してるんだって? なれるワケないじゃん、本気でなれると思ってるの? バカみたい!」と言ってた同級生がいたっけ…今何してるんだろう?

話が逸れました。

 私が10歳の頃の松本零士先生といったら「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」がアニメ化・映画化されていた雲の上の御方で、どうやってお会いできるのか…なんて想像もできませんでした。今と違ってSNSは無く、家の固定電話さえウチは3年前、小1のときにようやく付いたという時代でした。
↑電話が付くまで、ウチに用がある場合は向かいの牛乳屋さんに電話をして、牛乳屋さんがウチに「〇〇さんから電話ですよ」とわざわざ呼びに来てくれる…というシステム(?)でした。毎日その牛乳屋さんから牛乳を買っていたので、持ちつ持たれつ…みたいな。

やっと本題です。


こんな私が、松本零士先生に会えるかもしれない場所へ行けることになりました。
その頃に描いていた、犬猫を保護するアニマルシェルターを舞台にした漫画「ひなたの風景」が雑誌休刊で打ち切りになったもののコミックスになったので、いつか手渡したい~と思っていた矢先に

…お会いしましたよ!
この宝塚大学で!
先生は雑誌やTVでお見かけしていたとおり、ドクロの刺繍が入った帽子を被られてました!

そこで勇気を出して
「10歳のときに『トラジマのミーめ』を読んで漫画家を目指して、漫画家になれました! 私の、このコミックスを読んでください!」と話しかけて手渡し、受け取っていただきました!

それから1か月後。
同じ曜日に授業があって校内でお会いすることができて、下記の会話をしました。
 
私「あの…先月お渡しした私の漫画、読んでいただけましたか?」
松本先生「ああ、読んだ読んだ」
私「あの…泣けたり、しました?」
松本先生「ああ、泣けた泣けた」
 
…10歳の時に抱いた野望が達成した瞬間です。

当時の私に教えてあげたい。というか、念を送っておきました。
「30年後に野望が叶うよ。松本先生にもお会いできるよ」と。
マジで「生きてて良かった。もう、いつ死んでもいい」と思いました。
(↑これについては次の野望が発生したため、それを描くまでは頑張って生きます。次の野望は「私の漫画で佐藤秀峰先生の心臓を止める」です。佐藤先生の「ブラックジャックによろしく・精神科編」のラストが衝撃的で、私の心臓が止まったので)

 この「ひなたの風景」は、マンガ図書館Zで無料で読めます。
読まれると私にロイヤリティが少し入るので、読んでいただけると嬉しいです。
https://www.mangaz.com/book/detail/137351
「全
 松本零士が泣いた!」とキャッチコピーを付けたいですがやめときます。

亡くなった母が生前、たまに「お天道様は見てる」と言うことがありました。
頑張ってる人にはいつか良いことがあって、人を泣かせたり悲しませる人には罰があたる、という意味です。
このとき、まさにその言葉を実感しました。頑張ってきた甲斐があったんだなあ、ご褒美をもらえたんだなあ、と。

 私にとって松本零士先生は漫画の生き神様で命の恩人です。私が後進を育てたいと思ったのは、私に生きる目標を与えてくださったことへの、先生への恩返しの意味もあったのでした。

 実際、講師をしていた15年間、プロの漫画家・アシスタントになったり絵を描く仕事に就いた学生が何人もいるので、神様への恩返しはできた…という自負があります。
 
 松本先生との嬉しいエピソードは、もう一つあります。

 先生と隣り合った教室で授業をしていたとき、先生の助手をしていたNさんが私の教室に来て「今、喜びを絵で表現するってことをやってるんですが、松本先生の前で描くことに緊張して学生が手を上げないので、ちょっと描きに来てくれませんか?」と言ったことがありました。
 私も緊張しましたがそれ以上に、先生に直接見てもらえる! というミーハー心が勝って、“猫が、ヒャッホウ! と飛び上がっている”絵を板書して、すぐ自分の教室へ戻りました。

 授業が終わったあとNさんが再び教室に来て「たちばな先生が出てったあと、松本先生が『この絵を描いた人はすぐに猫の漫画を描いたほうがいい』と言われてましたよ」と教えてくれて。
Nさんは「もう描いてます」と言ってくれた…というのを聞いて、隣の教室へ駆け込みました。
まだ松本先生が残られていたので、その絵と一緒にNさんに写真を撮っていただいたのですが、一度PCがクラッシュしたせいでデータが消えてしまい…Nさんのスマホにデータが残ってないかなあ(問い合わせ中)。

 今、松本先生は宝塚大学の特任教授を辞されてしまわれましたが、教鞭をとられていたときは同じ曜日に出講されていたため、講師控室で何度かお話させていただくという、至福の時間もありました。
 先生が帰られてから座られてた席に座って、わずかに残る温もりを感じて多幸感に包まれたりとか。飲み残されたお茶を飲んだら爪の垢を煎じて飲む的に、私にもカリスマ性とか漫画の才能が身につくかも⁉ と思ったりもしましたが、そこはちょっと変態っぽい行為になるのでグッと我慢しました。

最後に。
松本先生が大学の入学式で何度も言われてた言葉があります。

「自分も、何度も連載が打ち切りになったりボツになったことがある。でもそれに負けず、心臓に毛を生やしていかなきゃダメだ」と。
 
 ということで私も心臓に毛を生やしつつ、それにプラスしていかりや長介さんの名言「次、行ってみよ!」で、生涯現役を目指していく所存です。



 
 


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