見出し画像

賃上げアイデアコンテスト優勝案「すべての会社員を個人事業主にする」を真面目に考察してみる


前書き

いつものことですが、私は労務の専門家ではありませんので、「賃上げ案」実施にあたっては社労士、労務に強い弁護士、税理士、労働局、保険事務所、税務署などにご相談ください。

事の発端

こちらの投稿を拝見しまして。

色々突っ込みどころがありまして、各分野から様々な指摘がされると思いますが、せっかくの内閣府「優勝」アイデアです。ここはひとつ頭から否定するのではなく、真面目に実現することを考えて見ようじゃないですか!

…というか、内閣府の「優勝」アイデアなんです。中小企業に賃上げして頂くための。ということはですよ。そして、Xでインプレッションを稼いでしまった。もしかすると今後、中小企業においてこういう場面があるかもしれません。


中小企業の社長(地域ではアイデアマンと有名)
「おい、こんなアイデアがあるんだってな!これなら会社も助かるし、従業員たちの手取りも増える!ぜひうちで試してみよう!!!」

中小企業の総務(人事経理法務その他もろもろ担当)
「ええっ…そりゃ無茶ですよ、だって…その、法律が…。」

中小企業の社長(地域ではアイデアマンと有名)
「このスライドに『法改正は必要ない』つまり今でも法的には問題ないって書いてあるぞ!内閣府の資料だぞ!やれるはずだ、調べてみろ!」

中小企業の総務(人事経理法務その他もろもろ担当)
(やばい、調べずに『できない』って言ったら激昂するパターンだ)
「わ、わかりました!調べてみますね!」

中小企業の社長(地域ではアイデアマンと有名)
「おう!いいアイデアだから他でも真似すると思うぞ!業界では『うちが初めて導入』って言いたいからな!早くな!」


(筆者、ここまで自分で書いて自分で頭を抱える)
この文章は、どこかの「もろもろ担当」に届けばいいなと思って書きました。

資料の確認

優勝したアイデア(実は2つあるうちの1つ)は公開情報になっています。

上記の記事からリンクをたどると2枚のスライドに簡潔にまとまっています。

1枚目
2枚目

個人的には "※登場する数値は超概算です" と "中小企業庁「令和5年中小企業実態基本調査速報」を参考にした平均的なモデル" の前提がいいですね…。

要約すると
・残業時間は「業務委託」ってことにして社保料と税金を節約しようぜ
・会社負担分が減って本人手取りが増えるし、実質賃上げじゃん
ってことだと思います。

課題整理

内閣府で「優勝」するほどの素晴らしいアイデア…なのですが。
実施にあたっては、ざっくりこの辺が論点になってくると思います(引用で指摘されてるのもこの辺が多い)
・労働法
・下請法
・源泉徴収義務
・業務独占(無資格営業)
・消費税(外税)
・青色申告

・労働法

まずは「偽装請負(一人請負型)」じゃねーのか、という指摘ですね。
雇用者と労働者は指揮命令関係にあり、それに伴って雇用者には安全衛生など様々な責任が生じます。一方で会社と業務委託契約を結んだ個人事業主であれば、基本的には「他社」なので雇用に伴う責任は生じません。下請法による各種の規制はありますが、直接雇用よりは負担が軽くなります。特に今回のアイデアで指摘されている社会保険加入義務などですね。
社会保険加入義務は一般的に「労災保険」「雇用保険」「健康保険」「介護保険」「年金保険(基礎・厚生)」がありまして、それぞれ「労働者の業務上の事由または通勤による労働者の傷病等の療養費」「失業時の生活費、教育訓練費」「(労働外での)傷病の療養費」「介護費」「定年退職後の生活費」などを補償するものです。それぞれ労働者であることを前提に加入し、労働者としての収入を基準に支払いが決まり、労働者であったことを前提に給付が行われ、特に失業給付や(厚生)年金給付は労働者としての収入を基準に増減します。
社会保険料は「労使折半」といって、半分は労働者、半分は雇用者が払う仕組みです。
実態は雇用契約であるにも関わらず、形式上のみ業務委託契約の書面を取り交わすことで本来の義務を回避しようというのは脱法行為のようにも見えます。

次に「定額働かせ放題」じゃねーのか、という指摘です。
そもそも我が国の建前としては、週40時間、1日8時間を超える労働をさせるのは禁止(労働基準法第三十二条)。会社と労働者の過半数を代表する者が協定を結んだときに限って一定の範囲で認めますよ、となっています(同三十六条)。
※この点、今回のアイデアで「残業を禁止する」という前提を置いてるのは、原則として正しい。
ただ、実態としては資料にもあったように、月平均16.7時間程度の残業は慢性化してる職場が多いでしょう(月20日勤務として、1日1時間未満の残業ですからね)。しかし月16.7時間あくまで「平均」です。残業はあくまで「本来の労働時間では完了できなかった業務を処理している」はずですので、業務の繁閑に応じて毎月変動している職場が多いのではないでしょうか。
一方で業務委託契約は「時間ではなく成果で」報酬を払うべきものですから、仮に月16.7時間残業を基準に業務委託契約を結んだ場合、その後になって会社が繁盛して業務が増えて月20時間残業になっても30時間残業になっても業務委託の報酬は固定、本来払うべき残業代より低く抑えるという脱法行為のようにも見えます。

それから、不利益変更禁止の原則があります。
上記の通り社会保険の対象となる労働時間および給与額が減少する(これは社会保険料支払いの減少つまり手取り収入増加の主因でもあるので厄介)と見込み残業時間の固定化が不利益変更とみなされるかもしれません。
個別に一人一人の雇用契約を調整するか、一律に就業規則の変更及び従業員代表との合意をとるか。仮に全員が納得して合意したとしても”言葉の綾”で不利益変更を強制したとみなされるリスクが生じます。
そもそも契約変更によって労働者たちは会社が負担していた社会保険料分の便益を受けらなくなるため、不利益変更とみなされるリスクを避けるためには業務委託報酬に社会保険料相当である15%程度の加算をしておくのが良いでしょう。

最後に、差別的取り扱いの禁止ですね。
これは指摘しているポストを見かけなかったのですが、上記の問題をすべて解決しても残る問題です。
労働者全員が喜んで業務委託契約を結んでくれればいいのですが、人によっては「業務委託契約より今まで通り残業代を正しく払ってくれる方がいい」となる可能性があります。
仮に一人でも残業の廃止および業務委託契約の締結を「不利益変更」と捉え、個別の雇用契約変更を拒否する、あるいは業務委託契約の締結を拒否した場合、その一人に限っては残業時間の集計、残業代の支払い、残業中の安全衛生管理義務が残ります。
同じ職場の労働者たちであるのに、残業時間に入った途端、かたや個人事業主、かたや労働者のまま、という形で仕事の仕方を切り替えねばならない。
雇用者からは、かたや指揮命令外、かたや指揮命令下。同じように取り扱えますか?管理が面倒なので残業時間中は片方にだけ仕事を振る、なんなら通常の勤務時間中もその前提で仕事を差配するってなりませんか?
職場の中で「業務委託契約を結ばなかった者」だけを仕事の輪から外した場合、それは差別的取り扱いであるとトラブルになるリスクがあります。

・下請法

資本金1,000万円以上の法人が、個人と「製造委託・修理委託・情報成果物作成委託・役務提供委託」の取引を行う場合、法人は下請法上の「親事業者」、個人は下請法上の「子事業者」となります(下請法第二条)。
労働者との間で新たに業務受託契約を結ぶということは、下請法の規制を受ける可能性が高いです。
下請法監督行政の前提として、「実態が労働者ならば労働法の適用」となりますので大前提としてちゃんと「業務委託契約」の実態を整える必要があります。そして、独占禁止法における「優越的地位の濫用の禁止」と同様の考え方が適用されます。

では「業務委託契約」の実態はどういう基準で見るのか。
内閣官房・公正取引委員会・中小企業庁・厚労省が共同でガイドラインを出しています。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/pamphlet/pdf/freelance_r03_12_07.pdf

「フリーランスとして安心して働ける環境を 整備するためのガイドライン」抜粋

…逆に言うと。
「業務委託契約」である以上は、個人事業主となっている間の労働者は「仕事を断ってくる」し、「契約書にない仕事はしない」し、「業務の進め方についての指示を聞かない」し、「どれだけ短時間で終わらせても規定の報酬を払う必要がある」わけです。
労働者なら仕事は断らないでしょうし(だから残業が発生するわけで)、予定にない仕事もやってくれるし(だから残業が発生するわけで)、やたらと時間がかかるような作業も指示通りに進めてくれるわけです(だから残業が発生するわけで)。

それと、「他社の仕事を引きけるかもしれない」
競合他社なら機密保持とか利益相反で縛れるかもしれません。でも、「お客様から直接仕事を引き受けるかもしれない」ですよ。
そもそも残業が発生する理由が「突発的だけど断れない(それなりに利益の出る)仕事が入ってきた」みたいなケースもあるわけです。
今まで「特急料金加算できるから、残業代払ってでも受けよう!」と受けてたような仕事を、自分の雇用している労働者が、個人事業主の立場で「あ、定時後なら私が個人事業主として受注できますよ」って直接契約する可能性があるんです。
あるいは「〇〇さんがやってくれるなら」とお客さんがついていた仕事。これも〇〇さんが「あ、じゃあ定時後なら会社を通さず直接受けますよ」となるかもしれません。
自社の労働者に「個人事業主としての活動実績」を与えて、本当に大丈夫ですか…?

さて、やっと下請法としての本題、親事業者としての義務があります。
・支払期日を決める(第2条)
・発注内容を交付する(第3条)
・遅延利息を支払う(第4条)
・取引記録を作成・保存する(第5条)

「発注内容を交付する」…これが最初にして最大の山場です。
発注書には以下の内容を記載しなければなりません。

(1) 親事業者及び下請事業者の名称(番号,記号等による記載も可)
(2) 製造委託,修理委託,情報成果物作成委託又は役務提供委託をする日
(3) 下請事業者の給付または役務提供の内容(委託の内容が分かるよう,明確に記載する。)
(4) 下請事業者の給付または役務提供を受領する期日(役務提供委託の場合は,役務が提供される期日又は期間)
(5) 下請事業者の給付または役務提供を受領する場所
(6) 下請事業者の給付または役務提供の内容について検査をする場合は,検査を完了する期日
(7) 下請代金の額(具体的な金額を記載する必要があるが,算定方法による記載も可)
(8) 下請代金の支払期日
(9) 手形を交付する場合は,手形の金額(支払比率でも可)及び手形の満期
(10) 一括決済方式で支払う場合は,金融機関名,貸付け又は支払可能額,親事業者が下請代金債権相当額又は下請代金債務相当額を金融機関へ支払う期日
(11) 電子記録債権で支払う場合は,電子記録債権の額及び電子記録債権の満期日
(12) 原材料等を有償支給する場合は,品名,数量,対価,引渡しの期日,決済期日,決済方法

いままで労働者に残業を命じる前に、
・具体的にどんな仕事を頼むか
・いつまでに完了させるか
・完了したものをいつまでにチェックできるか
・その仕事の妥当な対価はいくらか
なんて考えたことありますか…?

でも業務委託である以上は、事前に書面に記載して渡さないといけないんです。誰がその書面を作るのでしょうか。あ、もちろん書面を作るために誰かに残業させるなら、それも書面が必要ですね!

それと、業務委託の完了ごとに検収を行い、報酬支払いのために個人事業主から請求書を発行してもらう必要もありますね!
請求書ということはもちろんインボイス制度への対応を行うため一人一人が適格請求書発行事業者として登録されているかチェックし、インボイス番号の記載された請求書を発行してもらい、それを管理し…インボイス関連の業務だけでもそれなりの残業が発生する可能性が高いですね!

・源泉徴収義務

今度は税務対応です。
以下のような支払いに対しては、源泉徴収が必要です。

1 原稿料や講演料など
2 弁護士、公認会計士、司法書士等の特定の資格を持つ人などに支払う報酬・料金
3 社会保険診療報酬支払基金が支払う診療報酬
4 プロ野球選手、プロサッカーの選手、プロテニスの選手、モデルや外交員などに支払う報酬・料金
5 映画、演劇その他芸能(音楽、舞踊、漫才等)、テレビジョン放送等の出演等の報酬・料金や芸能プロダクションを営む個人に支払う報酬・料金
6 ホテル、旅館などで行われる宴会等において、客に対して接待等を行うことを業務とするいわゆるバンケットホステス・コンパニオンやバー、キャバレーなどに勤めるホステスなどに支払う報酬・料金
7 プロ野球選手の契約金など、役務の提供を約することにより一時に支払う契約金
8 広告宣伝のための賞金や馬主に支払う競馬の賞金

従来の仕事を残業時間のみ「業務委託契約」とするにあたって、どんな仕事を発注するかが問題になります。単純な時間単価で広範な業務を契約書に記載してしまうと「それって雇用契約ですよね」と指摘されるリスクが高まるので、なんらかの検収や集計が可能な「成果物」に単価を設定して行くのが無難です。
ただし、「社外に出す書類」ならばそれって原稿料では…?とか、「プレゼンや講習の実施」だったりすると講演料では…?とか、「受注額や受注数」だったりすると営業外交員なのでは…?みたいな話が出てきます。果たして業務時間中は社員、残業時間中は個人事業主、の相手に対して、業務委託報酬の源泉徴収義務は発生するのでしょうか。
そんなんどうでもいじゃん!と思うかもしれないですが、これは税務対応なんです。つまり判断するのは税務当局で、場合によっては脱税行為になります。
報酬の10.21%を源泉徴収する場合、しない場合をきっちり分けて管理する必要があります。この管理業務についても新たな残業が発生しそうですね!

・業務独占(無資格営業)

上記の「2」で弁護士、公認会計士、司法書士などが挙げられていますが、これらの「士業」に共通するのは独占業務を持っているということ。弁護士なら法律事件に関わる法律業務、公認会計士なら監査業務、などですね。
雇用関係にある労働者に命じているうちは問題がなかった業務でも、個人事業主に発注するとなると「資格」の問題が生じる場合があります。
例えば、税務。例えば、行政手続き。会社によっては、特許や建築に関する業務を行っている社員がいるかもしれません。本来の残業時間中に業務委託契約で依頼すると仕事を断られるかと思いますので、その場合は有資格者に発注することで増大する費用を受け入れねばならないでしょう。

・消費税(外税)


消費税分の委託費用が減額されている

本体の額面に対して通常10%の消費税が加算されます。給与は不課税取引ですが業務委託は課税取引になりますので、給与100万円であれば業務委託100万円に対して消費税10万円が加算される、というのが正しい比較というものでしょう。
上記の画像では、「ビフォー」で残業代支払い1000万円としていますが、「アフター」では同じ労働の対価として委託費用910万円を支払っているようです。
子事業者に消費税分の値引きを強要するのは優越的地位の濫用にあたる可能性が高いため、委託費用は1000万円、消費税は100万円とするのが良いでしょう。
おっと、前述の社会保険料相当分加算で委託費用は1,150万円、消費税は115万円ですかね。

・青色申告

こちらは労働者メインの話になります。

資料上はさらりと書かれている「青色申告」ですが、個人として行う確定申告とは違って「現金出納帳、売掛帳、買掛帳、経費帳、固定資産台帳のような帳簿」を作成し、保管する必要があります。

これらの税務に自信がなく、あるいは時間が取れない場合、税理士に依頼するという選択肢もあります。
相場としては…あんまり詳しくはないのですが、30~100万円といったところでしょうか…。まあ、50万円くらいで見ておきましょうかね。

また、もし業務を受注するにあたって、明確に労働者としての業務と個人事業主としての業務を切り分けるために専用のパソコンを買ったり電話回線を契約したりと必要経費がかかっており、仕入れ税額控除を行いたいという場合があると思います。
その場合はインボイス発行事業者として登録し、自ら適格な請求書を発行するか、取引先に仕入れ明細書を発行してもらう必要があります。

で、それらの業務をこなした先に何があるかというと、「事業所得に対する課税」ですね。インボイス対応は現実的ではないとして、仕入れ税額控除を諦めたとしても、青色申告&e-taxで最大65万円の控除が狙えます。事業所得が委託費用115万円+消費税11.5万円の126.5万円(免税事業者)と仮定して、所得は61.5万円、税率は総合課税でまぁ10%として6.15万円ですね。

結論

やってみろばーか

実現に向けて、まじめに取り組むと会社側も労働者側もかなりの追加業務負担が発生しますが、一応は労働者側の額面が上昇するようです。ではここまでの取り組みをすべて合算したビフォーアフターを見てみましょう。

なお謎の業務改善努力により、業務委託契約の導入にかかる追加の残業時間は一切発生しなかった前提で計算しています!!!!


企業目線「ビフォー」
残業代支払い ▲1,000万円
社会保険料 ▲150万円
=================
計 ▲1,150万円

企業目線「アフター」
委託費用 ▲1,150万円
消費税 ▲115万円
=================
計 ▲1,265万円

115万円のコストアップ!!


従業員目線「ビフォー」
残業代受け取り 100万円
社会保険料 ▲15万円
所得税 ▲6万円
=================
計 79万円

従業員目線「アフター」
委託費用 115万円
消費税 11.5万円(免税)
税理士報酬 ▲50万円
所得税 ▲6.15万円
=================
計 70.35万円

8.65万円の手取りダウン!!


実際には本来は不要だった大量の書類仕事、説明時間、苦情対応に忙殺されると思います。どこかの「もろもろ担当」さん、社長が「残業時間を業務委託にしてさあ」とか言い出したら、全力で逃げてください。その先には奈落が待っています。

あとがき

本件、賃上げ施策として優勝するほどのアイデアなのだろうか…という点は上記の通りだいぶ疑問ではあるのですが。
それ以上に解せない点があります。資料にある以下の2つの文章です。

「新たな財源を必要とせず」
累進徴収の所得税、社会保険料は「無駄な財源」

つまりこのアイデアの底流にあるのは、残業代にかかる「累進徴収の所得税、社会保険料」は「無駄な財源」である。という思想なんですね。
内閣府がこの思想に基づくアイデアを「優勝」とした意味は何か。
もしかして内閣府は累進徴収の所得税、社会保険料は無駄な財源だと捉えているのか。
「手取りを増やすには所得税と社会保険料が邪魔なのだ」という話なのか、それとも「税収や社会保険料収入が減ろうとも【財源】に問題はないのだ」という財政均衡論に喧嘩を売る趣旨なのか。
筆者として真に興味深いと考えております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?