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【ウクライナ情勢 〜時計は止まらない〜】


政治的内容についての投稿は、誤解を招きやすく、私の性格上、社会的には不適切な発言を連発してしまいそうであるため、避けてきました。

ただ、日本人の若手の中では、かなりウクライナと関係が深い方である私だからこそ、知らせられる内容もいくつかあると思います。

(現在日本にいるウクライナ人の数は全体で約2000人。そのうち、日本人の配偶者は250人である。)


私の情報から、みんなの考え方や言動、行動も変わってくる可能性があると思いますので、
万を辞して、今回のロシアのウクライナ侵攻の件について私の解釈、体験をお話しいたします。

本投稿(第1弾)は以下のテーマです。

・ウクライナとは、どういう国なのか、
・そこに住む人たちはどんな人達なのか。
・今回の件にはどういう背景があり、何故戦うのか


テーマ的にあまり、笑える話ではございませんが、
私の性格上、どうしてもユーモアを交えてお伝えいたします。
(コレがウクライナ人の感性でもあります。)
ご了承ください。

ということで!!!
手前のあいさつは、コレくらいにして本題に入ります!


本日。ウクライナから、2人の女性がウチに来ました。
1人目はイリーナ・ヤボルスカ。
私の義母。
もう1人は、ギャリーナ・イバノバ。
私の義理の祖母です。

51歳の義母は、めちゃくちゃ優しく穏やかで、料理が上手で、お茶目で、明るく、英語は話せませんが、
いつも私を笑わせようとしてきます。
2月の途中までは、週に1回は、(Google翻訳を使って)私に、飼い猫の写真や、巨大ケーキの写真を送ってきておりました(moon laugh)
2月末まで、ウクライナの薬品会社に勤めておりましたが、先々週、その薬品会社のオフィス、工場、その他関連施設は、全てミサイルでぶっ壊されました。
詳細は不明ですが、その会社はおそらく倒産でしょう。
いつも元気な義母ですが、さすがに、明るい連絡は止まってしまいました。

祖母は元気いっぱい81歳。
義母の母で、昔は大変な美人だったということを50回ほど聞かされました。あんなに明るく、ずっとしゃべってる81歳女性はなかなかいない。嫁の通訳が全く追いつかない程でした。私にダンスを教えてくれ、昔のアンティークの皿や、謎の宝石をくれたりしたのもその祖母です。
ただ、歳には勝てず、数年前から足の調子が悪く、普段は、家で、テレビやYouTubeを観て、ニコニコしてドシンと、家を守ってます。

戦火が上がった初期は、義母も祖母もハリコフの家に、残るつもりでした。嫁の父、つまり、義母の夫が、一緒には避難できないからです。
(18歳以上60歳以下男性は出国禁止)

義父はもともと軍人で愛国心が強く、戦いに行くと気合を入れ、銃を磨いておりました。(結果、年齢を考慮され前線には招集されず、戦闘には不参加)

その義父が、
『2人のおしゃべり女性は守りきれないので、ポーランド、あるいは日本に避難してくれ』
と説得し、2人は、泣く泣く24時間(戦闘エリアを避けるため大きく迂回)をかけ、ハリコフから、リビウ、そしてポーランドへ避難したのでありました。
(余談だが、義父は、昔、一年間ほど日本にいたことがあるらしい。その時に買ったG-SHOCKを未だにつけていた。『日本製はたけぇが、良い』と嬉しそうに話してくれた。『今のはもっと良いんですよ。電波時計だから1秒もズレないんですよ!』と、自慢げに話した俺は、帰国後、義父に、すぐさま、強そうなG-SHOCKの時計を買って送った。)


本題から外れてきてますね。戻します。
ということで、まずはじめに、ウクライナという国の特徴を簡単にご説明します。

ウクライナ🇺🇦の特徴
①昔から戦争の標的のエリア
→土地(チェルノーゼム)が肥沃なため、昔から、種植えれば実が育つ、ずーっと平面の土地が広がり、農業にうってつけの場所だった。

(うちの嫁が初めて日本に来た時の発言に、私はは度肝を抜かれた。
嫁『うーっわー!!!山だーー!』
私『うーっわ、山に驚く人おるんや!』)



②美男美女揃い
→上記の通り、多くの民族が血を争ってきた土地であり、それゆえ、日本で言う『ハーフ』というか、混ざってる人達が、ほとんど、というより、全員そうだと思われる。

③鉱物(レアメタル)が多い

④旧ソ連の地域で、1991年末に独立。

( )内、ウクライナの近代からの歴史です。
長いので、興味ある人だけ見てください。

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(遡りまくると、やはり土地が豊か且つ、ドニエプル川というヨーロッパ有数の大河川を有するウクライナの地域に住む人達は栄養満点の食料を確保でき、骨格は大きく、戦闘能力も強く、頭も良く、動物的に見て、かなり、優れている点が多かったといえる。
その象徴が、日本でもコサックダンスで有名なコサック民族。彼らは15世紀後半から17世紀半ばのヨーロッパで、肉体的にも頭脳的にも最強の戦闘力とみなされ、誇り高き集団であった。その後、ロシアやポーランド、オスマントルコと何度も戦い、時には勝ち、時には負けてきたのである。
当たり前だが、負ければ属国。ただ、負けたとしても、属国になったとしても、ウクライナ人は、ウクライナ人としての誇りを持ち続けているのであった(日本の戦国時代と同様)。

18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国とオーストリア帝国によるウクライナの抑圧政策と全ヨーロッパで流行したロマン主義・民族主義の高まりで、ウクライナ人の民族運動も盛んになった。
ロシア帝国は常にウクライナにおけるロシア化政策を実行しており、ウクライナ語は当時はロシア語の一方言「小ロシア語」として扱われ、独自の言語としては公認されていなかった。1863年に文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止するヴァルーエフ指令が出され、1873年にウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止する法律が定められもした。

第一次世界大戦が勃発し、
1917年、ロシア帝政が崩壊しペトログラードでロシア臨時政府が成立した。それに伴い、キエフでウクライナ政府が成立。
同年、十月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党のソビエト政権が誕生すると、11月に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発し、1918年1月にウクライナ人民共和国の独立を成し遂げた、

が、同年2月にロシアの赤軍はキエフを占領。

同年3月、今度は、ウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、首都キエフを奪い返す。

同年4月にウクライナ政権が成立した。国号はウクライナ国に改められた。
ウクライナは安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、

12月、政権が倒され、新たな政権が成立、国号は再びウクライナ人民共和国となった。

しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。
1919年1月。ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。

同年2月にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。

1919年から1920年にかけて、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保することになった。

西ウクライナについては、
1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日のリガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。


そして、1922年12月にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシの同盟条約によってソビエト連邦を結成。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となったのである。

1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行。
ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。
しかし、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開したのだった。

1939年、ソ連とドイツは不可侵条約を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。
同年9月に始まったドイツのポーランド侵攻で、
皆さんご存知、第二次世界大戦が勃発。

すぐ、ソビエト連邦のポーランド侵攻が行われ、その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西部エリアはウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合されたのだった。


1940年12月、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を秘密裏に決定し、1941年6月にソ連へ侵略した。

独ソ戦は4年間続き、戦闘は主にウクライナ地域にて、行われた。

当初、ウクライナ人はソビエト連邦共産党の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援した。

ところが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様の支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買うにいたった。

1941年9月、ドイツ軍はキエフと右岸ウクライナを占領し、10月24日にハルキウと左岸ウクライナを奪い取り、1942年7月までにクリミア半島とクバーニ地方を支配下に置いた。

1943年2月、ソ連軍はスターリングラード攻防戦においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月にドイツ軍から独ソ戦の主導権を奪った。


1943年11月、ソ連はキエフを奪還し、1944年5月にかけて右岸ウクライナとクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は西ウクライナを完全に支配下に置き、東欧・中欧諸国への侵攻を開始した。

ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。ソ連軍が占領した東中欧諸国ではソ連の衛星国が樹立された。

第二次世界大戦においてウクライナはハリコフ攻防戦など激戦地となり、莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1,400万人とされる。
ウクライナ人の間では5人に1人が戦死したのだ。

バビ・ヤール大虐殺などナチス・ドイツによるホロコーストも行われ、ウクライナ系のユダヤ人やロマ人などの共同体は完全に破壊されたという。

独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した。

独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の赤軍にも、ドイツ側の武装親衛隊にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独のウクライナ蜂起軍に入隊し、独立したウクライナのために戦ったのであった。


1953年のスターリンの死後、犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。

しかし、1972年にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。冷戦で対立していた東西ヨーロッパ諸国が人権尊重などを謳ったヘルシンキ宣言(1975年)を受けて、1976年には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それもソ連軍により、弾圧された。

ソ連支配下のウクライナにおいて大部分のウクライナ農民は、1970年代まで国家の社会保障を受けることもできないでいた。収穫の大部分は相変わらず国家によって搾取され、スターリンの大粛清の恐怖がなくなってもなお、共産党の幹部たちは自らの特権階級としての地位を不動のものとしていたのだ。

非効率な計画経済、冷戦下における膨大な軍事費・科学技術費は、ウクライナの近代化を進めたとはいえ、人々の生活は一向に改善する気配がなかった。政治の腐敗、経済的矛盾は深刻化していったにもかかわらず、隠蔽され続けた。

そして、
1990年3月に、ウクライナにおいて民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現し、7月、最高会議は「主権宣言」を採択。さまざまな国家の権利をソ連から取り戻すことを宣言し、非核三原則も採択した。
ウクライナ共産党は分裂・衰退し、民主勢力へ走る者も出た。
崩れ行くソ連を完全に見限り、8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」を削除した。
12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持され(ウクライナ国内の多くのロシア人も支持した)、レオニード・クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれた。1917年の独立革命の挫折以来、幾多の試練を乗り越えて、ついにウクライナの独立は達成されたのである。

しかし、
独立後も実際のところは、ロシアの支配下から抜けられず、政治や産業の中枢部はロシアに握られ、ヨーロッパへの接近は出来ずに20年間、不遇を見ることになる。
その間、ロシアの産業も衰退していったことは、
周知の通りである。
旧ソ連時代ののハイレベルな産業水準は、ウクライナ人による貢献が大きかったのであろう。
崩壊後の20年間、
ロシアでは実が作れず、ウクライナでは、実を売る方法がなく、ともに、弱体化していた。

と言えるかもしれない。
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ここまで目まぐるしく、とってはとられを繰り返してきた地域はなかなかないであろう(私が知らないだけかもしれないが)。

そして、ついに、2014年。今回の騒動に強く結びつく事件が起きる。
親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの野党勢力などによる反政府運動が勃発したのだ。
1月後半より、抗議者の中に右派セクターなどの武力抵抗を辞さないとする立場のグループが現れ、これを制圧しようとする治安部隊との衝突が発生、双方に死者が発生した。
2月、ヤヌコーヴィチ大統領が行方をくらませたことを受け、ヤヌコーヴィチの大統領解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラーダにおいて承認され、新政権が発足した(2014年ウクライナ騒乱)

ちなみにだが、私が初めてウクライナを訪れたのはこの騒乱が起こる直前の2013年11月である。

大学2年生の頃の私は、サッカーボールを片手にキエフ・ハリコフの地を踏んだ。
今となれば、不思議だが、そんな時代の背景など知らないのに、私はウクライナに、大きな違和感を感じたのをよく覚えている。

この国は、明らかに、どこかおかしい。
人もいい。土地もいい。場所もいい、のに
『豊かではない。』
日本と比べてではない。
世界と比べてだ。どう見ても、豊かではない。
なんとなくわかる。強くほどけない不合理がこの国を縛っている。そんな感じだ。

例えるなら、蜘蛛の巣に引っかかったアゲハ蝶、あるいは江戸時代の農民といったところだろうか。

私はそのあと3年以内に6回、ウクライナへ行っていてる。ウクライナへ行くのには、ビザはいらない(ちなみに、ウクライナ人を日本に呼ぶのには、1ヶ月以上に及ぶ手続と、2010年代とは思えない、紙とサインをベースにした、非常に閉鎖的な手段を用いらねばならなかった。(現に、書類不備を勧告され2度、断られている))。


今まで聞いたこともなかったであろう、キエフ、ハリコフ、オデッサ、リビウ等々、ウクライナの主要都市は、全て行ったことがある。
どこも味があり、美しかった。食べ物も美味い。安いし。

ただ、違和感はいなめかった。
街に、寂しさがあった。暗さがあった。
インフレや、建物、労働環境、そう言ったところに、不自然さというか、もっと言えば、政府の体制の不備・綻びが滲み出ていたのである。

ウクライナに滞在中は、嫁の知り合いを中心に、現地の若者や、高齢者達と話す機会があった。

皆、賢い。歴史を知ってる。政治に詳しく意見もある。テクノロジーの知識にも長けていた。
それに明るい。面白い。女性は美しい人が多いし、男は、筋肉モリモリでデカいし、強そう。

話したほとんどの人たちが、自分の国(ウクライナ)の発展のことを真剣に考えていた。

コイツらはすげぇ。

人間というか動物としての優劣差、それを、まじまじと見せつけられた。
頭いいし、視野広いし、身体デカいしマッチョだし、面白いし、かっけーし、、、勝てるとこ何も、ねぇ。
あ、サッカーのテクニックと理系科目なら勝てるか、
、、、。

情けなっ。

その後、私が、肉体改造や、政治、ビジネスに関心を持ち、社会を見るようになったことは、言うまでもない。当然の流れであった。

さて、2014年以降のウクライナはというと、
黒海に面する観光地クリミアが奪われ、東部ドネツク、ルガンスクが奪われ、東部では戦闘が続いた。
私が行った何回かは、危険な状態で、
街で大規模で威圧的なデモや、
高速道路の装甲車、街中のライフル持った武装した軍人を見ることは珍しくなかった。

それでも、キエフでもハリコフでも、オデッサでもリビウでも市民達には日常はあったし、温かい笑顔も多かった。スポーツをしたり、動物と戯れたり、バーベキューしたり、キャンプしたり、恋愛したり、勉強したり、テレビで笑ったり、YouTube見たり、家族と話したり、喧嘩したり、冗談で笑いあったり、、。日本と家族と変わらない、そんな日常を過ごしていた。不遇の中でも世界中の皆と同じ幸せを感じて暮らしていた。

今年の2月までは。の話だが。

もちろん、私は今年に入っては一度もウクライナに行っていない。直接見たわけではないから、コレからの情報は、あくまで、ウクライナにいる嫁の家族友達から聞いた話だ。もしかしたら、みんなが嘘を言ってるのかもしれない、

が、ニュースの通りです。
街が破壊されてる。市民の命が脅かされてる。

身近な話で言えば、
嫁の実家のある街、ウクライナ第二の都市ハリコフでは、地上戦はほぼ終わっている。
ウクライナ兵が、奪還に、成功した。
(そもそもウクライナ男子は皆、厳しい徴兵を経験しているため、強い。銃は扱えるし、闘いのノウハウは皆、わかっている。さらに気持ちの面でも、ロシアだけには負けないという強い魂があるので、肉弾戦では、おそらくロシア兵には負けにくいと思われる。)

が、街の外からミサイルがひっきりになしに飛んできて、施設を襲う。ヒューっ というミサイル飛行時の風切り音が、20分に1回程度、身を震わせる。
夜はおやすみ?そんなことはない。
むしろ、夜が本番らしい。

義母がハリコフにいたころは、義母と義父は、交互に仮眠をとり、共に寝ている状態は作らないようにしていたということだ。(義母、祖母が避難してからは、義父は、昼に90分程度しか寝ていなかったという。)

嫁は、毎日いや、毎時間、義母からの電話をとった。
その度に、嫁は俺に気を遣い、自室にこもった。
そして、毎回、大泣きが聞こえてくるのだ。
心配で見にいくと、電話の向こうの母親の泣いてる様子も伝わる。
私は、寄り添うことしかできなかった。
嫁はこの話になると、涙で話せなくなるから、
話を聞いてやることも、十分にはできない。
嫁は、手を震わせながら、30分おきに更新されるミサイル被害情報を確認していた。

実は、
そんな日々なのである。

先日、嫁の実家(義父が一昨日まで住んでいた)の
隣の建物が、ミサイルで粉砕された。

実家の窓ガラスも、衝撃で割れた。

義父は、田舎の親戚の家にに避難することに決めた。
生きるために。
ろくに寝られていなかったのだろう。

一昨日の晩は久しぶりに、よく寝られたという。
義母と祖母が日本に来られることが決まったからだ。(親戚と変わりばんこで寝られるというのもあるが。)

自分のことよりも、家族の身が心配なのだろう。

その義父と、昨日、連絡が取れ無くなった。
ケータイが繋がらなくなったのだ。

嫁と私は、青ざめた。

慌てて、泊まっている親戚の連絡先を調べた。
ようやく、電話番号を突き止め、連絡を入れた。


繋がった。


どうやら、トイレにケータイを落として水没してしまって、今、乾燥中だそうだ。

嫁曰く、本人は新しいケータイを買えるからむしろ、ラッキーだと上機嫌だという。
そらに加えて、『タカシにもらったG-SHOCKは相変わらず1秒もズレずに、動いているから安心してくれ』とのことだった。

『あぁ。なんか、すげーな。俺も頑張んねーと』

はその時から自分のG-SHOCKを、ウクライナタイムにしている。少し不便だが、仕方がない。
同じ時を刻もう。

紛れもなく、今は【Uじ】だ。


【ウクライナ情勢 〜今も時計は止まらない〜】

【第一弾 完】

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