見出し画像

山形の姥神をめぐる冒険 読書編(塔をめぐる冒険①)#9

『東京都同情塔』 九段理江 新潮社 2024年1月


 2023年の芥川賞受賞作である。作品中にAIが書いた文章があるということで話題になった。それくらいの関心しかなかったのだが、ある機会に一読してすっかり〝塔〟に心を掴まれてしまった。塔が象徴する矛盾や不穏な欲望、不安のようなものがこの作品には渦巻いており、どうにも捉え難い現代社会に生きる私たちに迫ってくるのである。
 価値観とモラルの変容は戸惑いとためらいの渦をいくつも作り出す。人間の倫理をもう一度捉え直そうという試みが昨今顕著なのもその表れだろう。

 ナチスも良いことをしたじゃないか? 
 ヒトラーだって優しいところがあったんだって? 
 オッペンハイマーの苦悩にも同情するべきところがあったのでは?
 知らんけど。

 差別は許さない、多様性を認め合おう、と社会がこぞって言うようになった。犯罪を犯した者への「同情」が提唱され、彼らのための塔が建設される。なぜなら彼らが犯罪を犯したのは生い立ちや機会の恵まれなさゆえであり、それはその人の責任ではなく、社会の責任だからである。
 「無知の涙」の再来か?いや事態はもっと複雑だ。

 主人公は〝同情塔〟の建設を依頼された建築家である。正確には〝シンパシータワートーキョー〟という。30代で建築家として確固とした地位を得た彼女だが、社会が要請する言葉が自己の中で内面化され、常に検閲をしながら言葉を話す。
 こういう言い回しは差別的だろうか、建築家として不適切ではないだろうか。彼女の相談相手はAIだ。外見はもとより内面も「ザ•成功した女性建築家」としてのキャラを生きているのだった。人間の姿が塔に見えてしまうという彼女だが、彼女自身は不安定な塔だ。そうしてやがて倒壊してしまう予感を孕みつつ、ドージョー塔の建設は進んでいく。

 自我の崩壊。AIが適切と考える価値観に飲み込まれていく人間は自我を失っていく。

 あり得そうなそんな近接未来を生きる若い男が描かれる。彼は人間が人間らしい動作をするのがおかしくて笑いをこらえられない。おそらく彼は投票にもデモにも行かない。世界を変えることに興味はない。誰よりも早く新しい世界のルールを覚えて適応すること。それが彼の生存戦略だ。20歳そこそこでそんな〝人生哲学〟を身につけた彼には葛藤も闘争もない。AIのように生きればいいのだ。

 ここで何が起きているのか。そもそも〝塔〟と〝同情〟とはどういうものかについて簡単に考えてみたい。
 まず、塔が象徴するものとは何か。バベルの塔を持ち出すまでもなく、塔とは傲慢な人間の権力と虚栄心、誇りの象徴である。それは対話を拒絶し、循環を不可能にし、感染を防止する強力な空間の暴力になっている。そう、塔はその高さゆえ、見る人のメンタルを左右する暴力となりうるのである。
 一方、同情•シンパシーとは他者との対話が不可欠なケアである。それはどこまでも水平で混ざり合う性質を持っている。さらにいえば、地下に潜って地下茎でつながり合うような目に見えないやりとりなのである。情けは人の為ならず。巡りめぐる円環の起点なのだ。
 支え、支えられる相互の関係性の中でしか育まれないはずのものが、塔というパッケージに押し込められる陳腐さ。このあまりなチグハグさに「待った」をかけることができなかった主人公は、自分の存在そのものが倒れる塔になってしまうのである。

 待った、と言えないくらい変化のスピードが速い世界を私たちは生きている。その中で必死にSNSで声を上げるのは、自我の叫びだろうか。
 無数の〝アカウン塔〟が立つ地平が見える。それぞれの塔はマットに楊枝を突き刺したように弱々しい。塔には根っこが生えない。低い塔、高い塔、中には炎を上げて燃えている塔も見える。
 監視し合う無数の塔たち。
 電力停止で消滅してしまう塔たち。

 次回は塔についてさらに考えを深めてみたい。
 人はなぜ塔を建てるのだろう?
 なんのために?
 何とそれを考えた人が書いた本を見つけてしまった。その名も『塔の思想』。1886年にハンガリーに生まれた女性が記した論考である。
「塔をめぐる冒険 ②」でご紹介します。お楽しみに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?