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山形の姥神をめぐる冒険 #15

【若松寺 旧参道】 天童市山元 2023年10月

 山形の一の宮である若松寺へは何度も行ったことがある。山道を登る参道も初めてではなかったが、姥神像には気づかなかった。そう、姥神像はひっそりと奥の方に佇んでじっと座っていることが多い。特にこんな山の中にいる姥神は。
 多くの石仏を通り過ぎ、本殿が近づいてきた辺りの斜面で姥神を見つけた。やってくる人間の姿がよく見える小高い一隅だ。一目見て、「なんて意地の悪い顔をした婆さんだろう」と思った。〝意地の悪い老婆の顔〟そのものを具現化している。過去に意地悪をされた知り合いに似ているなどと思う。
 なんて俗っぽい意地悪婆さんだろう!
めでためでたの若松寺に、よりによってこんな姥神がいたとは!

 この日は急な寒気のせいで風邪気味だった。湿気がこもった薄暗い山道も身体を冷やしてしまった。もしかしたらそんな自分の状態が姥神を意地悪に見せているのかもしれなかった。
 そしてなんとなくこの参道は、自分の身体の中にいるような感じがした。自分の内臓の中を歩いているような。そこは自分の無意識や深層心理にもつながっているようで、少しクラクラするような危うさを感じた。
 この日の前後に見た夢がおかしかった。大きな川を渡る橋の途中で橋の向こうからやって来る昔の友人に次々と出会った。また別の夢では、真っ暗な方へ行きかけると、いきなり背中にトリモチみたいなものがついて進めなくなった。〝行ってはいけない〟という警告?怪談話でよくある不思議体験とそっくりだ。
 姥神めぐりは、自分とのダイアローグなのだ。自分が見過ごしてきたもの、忘れたと思っていたこと、過去の自分。とても整理などつかない膨大な記憶と時間。それらが渾然と立ち昇る。救いや赦しを与えてもらうのではなく、問われるのだ。問われながら揺り動かされるのだ。何を問われるのかは、その人にしかない何かなのだと思う。

 樹齢何百年もあろうかという杉や欅の巨木は、この参道のために植えられたのだという。黙々と参道を降りて帰途についた。


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