歳を重ねて(Ver.17)

 17歳になりました。また一つ歳を重ねましてあぁ情けないことだなぁと思う誕生日はもはや恒例行事なのですが、今回はそう言う類の感情がいつもより多いような気がします。

 最近大人になるってどう言うことなんだろうとふと思いましてぼんやりと振り返ってみたところ一つ仮説が立ちました。それは「諦め」ではないかと。自分が生き続けることに何の意味も見出せない、価値がない、だからどうにかしなきゃいけない、最悪死のう。僕の場合は「生きていちゃいけない早く死ね」ですがそんなことはどうでもよくて。でも最近もう考えることにも疲れてしまいまして、惰性で生きることを覚えようとしている自分がどっかにいるんですよ。
たぼーやー思考準レギュラーのカミュさんはこう言いました。

「希望とは一般に信じられている事とは反対で、諦めにも等しい物である。
そして生きる事は、あきらめない事である。」

 希望を持って生きていくためには諦めることが必要だが、それは果たして生きていると言えるのか?という問題提起だと思ってます違ったらすいません。同年代の皆さんは「大人になりたくない!」って叫びながらその優れた文章力で共感を得ていらっしゃることが多いのだけど、僕はもうそうやって文章にする体力も失いつつあります。こんなことをしたって現実は何も変わらない、そう思ってしまうのです。自分の置かれている状況に争って生きていこうと言うのは若さにしかない素晴らしい力だし応援したいのだけど、いざ自分となるとやはりもう動けない、老人になってしまっています。

 彼女に誕生日を祝っていただきまして(自慢です)付き合いはじめてからのことを振り返ってみると、彼女はとても変わったんですが僕は根本何も変わってないんですよね。僕は気を使う、配慮することには相当の自負がありまして、相手の感情を全力で読みにいって全力で先回りします。たまに嘘も混ぜるし基本感情は出さないし読ませない、そんな人間です。ずっと同じ信念のもと最適解を引こうとし続けるだけ。リスクを取らないように、嘘とばれないように、嫌われないように。裏切られるのが怖いからって先に裏切ろうなんて言うのはあってはいけない思考だとわかってはいるけどやめられないんですよね。

 人が変わるには一旦破滅するしかないと思っています。僕の人生は幼小形成中破滅って感じなのでもう壊れちゃってるんですよね。正直戻りたくもないしもう一回あれをやりたくもないので当面恒常性希死念慮からは逃れられないんでしょうね。逃げて逃げてこれなのでもう逃げる気力もないから大人しく死んでしまおうって普通に思います。何のために今までこんなことしてきたんだろう。

 でももはや希死念慮すら諦めに変わろうとしている気がします。どうせ死なない、行動したくないそんな気持ちに置き換わったりします。どうせ生きるしかないんだからと、変に割り切ろうとしています。これが大人になるということなんでしょうかね。正直厨二の自分も悪くはないと思うんですがどっちが生きやすいかと言われると諦める方なんですよね。

 ただ、カミュ先生の言うとおり、それは廃人状態と同じではないかと僕はまだ思います。でもいずれそれも仕方ないと諦める日が来るんでしょうね。

 丸くなったってこう言うところからなのかもしれないね。

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