「忘れる」の捉え方

 昨夜、「はじめてのおつかい」(日本テレビ系列)と「認知症の母と脳科学者の私」(NHK)をみた。
 
 前者は、就学前の子どもがおつかいを頼まれて、その奮闘ぶりを描く長寿番組だ。後者は、脳科学者の娘が、認知症の母と向き合うドキュメンタリー番組だった。
 
 おつかいに出かける子どもたちは、頼まれごとを忘れてしまう場面が度々ある。大人ですら買いたいものを忘れることがよくあるのだから、わずか4歳前後の子どもであれば、仕方ないように思う。子どもたちは、買うべきものを忘れていても、それすら忘れたようなやり切った表情で、おつかいから帰ってくる。おつかいに出した親からすると、忘れてしまったことはさほど問題なく、行って帰ってきてくれるだけで十分なのだと思う。視聴者側も、買い物忘れを可愛く感じてしまうのもきっと事実だろう。
 
 一方、認知症の進行により物事を忘れてしまうとなると、捉え方は少し変わってくるはずだ。番組の中で、症状が進み自分の誕生日を思い出せない場面が描かれていた。親の変わり果てる姿を受け入れられず、介護をする周囲の人にとっては、「忘れる」という事実が、重くのしかかるのだろう。
 
 両番組を通して、幼い子なのか高齢者なのか、主語が誰かによって、「忘れる」ことの捉え方が異なるように感じた。その周辺にあるのは、「思い出すことの可能性、期待」なのだろうか。同じ動作でも誰がそれを行うのか、受け取り手によってどう捉えるのか違ってくるのだと感じた。

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