バカ差別の差別性について

少し前になる。

このようなツイートを見た。

のでコメントしてみた。

が、反応はなかった。

ま、そんなもんだろう。


引用をたどっていくと出てくる元ネタで、「偏差値が低いから嘲笑している」のはこちらのツイートである。

実際にこのツイートを読んでみると、偏差値の低い人間及びネトウヨへの嘲笑など可愛いもので、幸福の科学とその信者を殴りに行っていることがわかる。

公称1200万だかの幸福の科学の信者は、かなり保守的に見積もっても国内に数十万いると考えていいだろう。

ちだいさんは自分が、数十万、下手すると数百万という会ったこともない人たちを、「幸福の科学の信者」だからというだけで踏みつけたということをどこまで理解してるんだろう?

一体どこに、そんな事をする必要性があったんだろうか。


ちだいさんet al.(この一連のツイートにおいてちだいさんに賛同しているらしい人々) の考え方としてはだいたい、

① 「幸福の科学」が、様々な問題性や劣悪な側面を持っている
② 劣悪さが明らかであるにも関わらず信者になる者は知性が低いに決まっている
③ 知性が低いものは侮辱・嘲笑されて然るべきである
④ 幸福の科学の劣悪性は積極的に表立って批判されるべきである
⑤ 信者の知性の低さを嘲笑するのは「批判」のためである

というようなものだと見受けられる。

①と④は理解できる。だが②、③、⑤はふつうにとても差別的で驕った考え方だろう。しかもバカ迫害だけでなく、信仰心に対する迫害という「わかりやすくアウト」な例なはずなのに、「反差別」を標榜するアカウントがいくつもこのような考え方に同調しているようで、頭が痛い。



1. 信仰について


幸福の科学に関しては、確かにわたしも守護霊インタビューの話題などは何かの冗談だと思っている。教団に欺瞞を感じたりもするし、信者は色々騙されてんじゃないかと心配になるが、ただそんな事言ったらキリスト教だって仏教だってイスラム教だって五十歩百歩なのである。

そもそも、キリスト教の「神」であるナザレのイエスはユダヤ教徒で、彼が「神」であることは彼の死後三百年以上経ってローマ帝国の公会議で決定された話である。

彼は自分が神だなんて言ってなかったし、彼の弟子たちもそんな事思ってなかった。現存する記録上ではイエスの死後30年ほど経過してパウロが「いわば、彼自身が神の具現化みたいなもんだったよな」的な事を言ったのが最初だったとされているようだ。

つまりイエスの弟子たちにとって「イエスが神」とは、現代でいう「マイケル・ジョーダンが神」みたいな話だったと考えられる。

今から何百年か後、マイケル・ジョーダンを神と崇める新しい宗教によって、伝記や์ฺインタビューが編纂されて聖なる教典とされ、信者たちが引用を暗記しては呪文みたいに唱えるところを想像してみてほしい。どこをどう切ってもカルトだろう。すごくポジティブなカルトになりそうではあるが。「失敗には耐えなさい。しかし挑戦なきことには耐えてはなりません」


仏教だって、ゴータマ・シッダータの教え自体は、「親孝行しないと地獄に落ちて賽の河原で石を積み続けることになる」というような、恐怖をもって民を善行へと追い込むようなやり方とは、どう見ても真っ向から対立するものだろう。

わたしの理解が間違っているのかもしれないが(お前に仏の教えの何がわかると言われたら、うんまあ、あんまりわかってなくても何の不思議もないとは思う)、シッダータは「親孝行もしたし善行もした、これで死んだら極楽へ行けるだろう」なんて誰かが言ってたら、「親孝行もしなければ親不孝もしない、善行もしなければ悪行にも染まらない。執着と迷妄を離れた者は、死後極楽に行くか地獄に送られるかで心を惑わされることはない」とか何とか言ってくるタイプの人じゃないのか。あまりにも思想が違いすぎる。

つまり仏教も、日本まで伝わって受け容れられる間に、単に儒教と混ざったというだけではなく、歴史上実在の思想家を、「地獄」という究極の恐怖からも救ってくれる「仏様」、スーパーパワーを持った神(祈りの対象であり隷属の対象)としてマーケティングするというマッチポンプ商法を採用するに至ったということだろう。


コーランは大天使ガブリエルに言われたままを書き取らせたとか言われてて、だから無謬だったり色々聖なる力が宿っているとも言われているらしく、そういう意味では「始祖の教え」をそのまま伝えてはいるのかもしれないけど、その教えは「霊的交信によって天使から授かった言葉」なわけで、少なくとも構造は「守護霊インタビュー」と全く同じである。


宗教組織なんていうのは、現実、まあだいたいそんなもんだ。


教団の権力拡大のためだとか、幹部の私利私欲や保身のために罪もない人々を虐殺するぐらいのことは、まあなんというか、誰もが通る道のようである。それも何度か。


しかし、そんな宗教組織の批判をことさら慎重になって精密に行わなければならないのは、「宗教組織」と人々の「信仰」には別の価値があるからだ。

フィリピンやボリビアの貧困層の真摯な祈りは、バチカンの血塗られた歴史によって損なわれるべきものではない。

「信仰」というのは——。

「信仰」とは、その人にとっての、人のあるべき姿、世界のあるべき姿、その理想や、善の概念そのものを投影し、それらへのコミットメントに意味と形を与え、確認するためのイメージの集合体である。

「宗教」が持つ尊さや神聖さの本質は、そんな「信仰」によって与え、築かれる。


だから、人の信仰に軽々しく泥を塗ったりすべきではないのだ。



宗教の教義はきっかけにすぎない場合だって少なくはない。

スンニー・ムスリムとエホバの証人が、チベット密教徒とサイエントロジー信者が、宗教的探求の中——人としてどうあるべきか、今目の前にある事象にどう対応すべきかを探求するうちに——で同じ疑問を持ち同じ答えを出すことも珍しくもない。

それらの探求と、彼らが見つけ出す答えの価値に、偏差値みたいなくだらない物差しを持ち込んでケチつけるって……。

しかもそれがこんな勢いで正義扱いされちゃうって……。


もう溜息しか出ない。




2. 「バカ差別」について


「いや、一宗教の信者一般までバカにすんのはちょっとよくないんじゃない?」

というような声が、反差別を標榜する人々からも上がらないのは、たぶん「知性の乏しいものは侮辱・嘲笑されて然るべきである」というカルチャー`のせいであろう。


ここで語られる、「偏差値」が示すような知性を構成する二大要因は遺伝子と、教育環境である。

「遺伝的能力が一定ライン以下しかない人たちは、侮辱・嘲笑してもいい」という考え方が差別じゃなかったら何なんだろう?優生学そのものではないのか?

そして、「一定ライン以下の教育環境にしか恵まれなかった人たちは、侮辱・嘲笑してもいい」という考え方も、ただの人でなし以外の何モノでもなかろう。


「遺伝的障害を持つ人や、貧困層なら、侮辱・嘲笑してもいい」という考え方と、どう違うのか。

にも関わらず、なぜそんな考え方がカルチャーとして定着してしまったのかといえば、少なからぬ人々がそうやって育てられたからなんではないかと思う。


先日、銀座ウエストが炎上してた一件で「制御不能のお子様」という表現を見て「これだ」と思った。

まさに「制御」だ。


わたし自身、「侮辱、嘲笑されて当然の二級市民への降格」という罰の力によって、お利口さんであるように、常識的であるように、きちんと勉強するように、自己の価値を社会的基準にあわせて高めるように、親や教師や周りの大人たちに「制御」され、育てられた。

わたしの育った環境では、一定のレベル以上に非優等生的な資質や傾向の強い個人は「バカ」として、人権を認めてもらえるだけで、食わせてもらえるだけでありがたいと思わなきゃいけないような劣った存在として、自分にまつわる全てを一方的にそして悪意的に解釈され、侮辱、嘲笑されるのがふつうだった。

だからわたしも、とても長い間、それが当たり前だと思っていた。

他にもそういう人は、けっこういるのではないかと思う。


自分もバカなことをしでかしたら侮辱・嘲笑されるのが当たり前だと受け容れるということは、バカな他人を自分が侮辱・嘲笑するのも当たり前だと受け容れるということだ。

それは、「バカ」な他人が、「自分は犯すことが許されなかったミスを犯しまくっているのに、なんのペナルティも受けていない」ように見えてくるということだ。

そして遅かれはやかれ、そんな彼らを「罰する」名目で、「制御」のために受けてきた抑圧によって溜まるフラストレーションを発散するようになる。


そういう人がいる一方で、世の中には、知識の習得具合、それどころか成長ぶりに、親や周りの大人たちから関心を一切示してもらえない環境で育つ人もいる。

良い成績をとった時に、ご褒美をくれるどころか、喜んでくれる人もいない、悪い成績を取ったところで罰したり怒ったりする人もいない、関心を持ってくれる人間自体がいない状況では、学校を形だけ卒業するだけでも難易度が驚異的に上がる。そこで人並みの知識を得るなんて特別優れた素養の持ち主でない限りただの無理難題である。

後者は前者の良い餌食である。


だから。

反差別を含め、諸問題解決のための社会や政治の改革を訴える人たちが。

公的な場所で、全く必要性のない知能・知性に基づいた侮辱や嘲笑を繰り返し、それを正義だと主張するなら。

偏差値の低い人間を、政治や社会について語る議論からも排除するとか、その発言権を制限するとかして、偏差値の低い人間には、社会に自分たちの意志や希望を反映させる権利を制限あるいは否定するなら。

偏差値の低い人々しか信じていないような宗教だと、宗教や信仰の正当性まで否定するのなら。

少なくともわたしにとってその正義は正義ではなく間違っているし、そんな「反差別」は名前だけでそれは差別でしかないと、けっこう本格的に明言していく必要が出てきてしまうのである。らいく、なう。



優れた知性を形成できるような環境とは、privilegeである。

わたしは価値観が左なので、誰もが得られるわけではないprivilegeを与えられたのなら、それを他者、特に同じprivilegeの配当が少なかった人と分け合うのが「ただしいこと」だと思っている。

他人の知性の乏しさを嘲笑うほど知性が高いなら、他者がうまく言えないことを汲み取り、理解できないことを説明するぐらいのこと、やってみせれ。


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