ビ・ハイア清水氏のブログの三行目以降

移動はできない、でも身体と頭が動かないわけでもないという事で、時間ができた。

前回、「ビ・ハイア清水氏のブログをじっくり読もうとしたら二行目で既にイジメにしか見えなくなった件」の続き。

このブログ記事を読んでいた。

書き出しはこれである。

そんな親なら捨ててしまおう!というわけで日本一醜い親への手紙を応援するために追加で買った10冊が届きました。毒親に育てられた大山に親を憎む顔をしろ!と言って撮影したのがこの写真です。親に愛されてない子供時代を過ごすとどうなるかというと、いつまでも親から愛されたい愛されたいという欲求が残ります。愛されもしないけどね。そうすると何が起きるかというと愛されてもいないのに自分は親に愛されているはずだ・・・という嘘のストーリーを作り上げてそれを信じて調整をしようとします。


初めて読んだときの第一印象は、「あれ、これ文頭じゃなかった?」というもの。まるで欠けた前半部分があるような文で意味がよくわからなかったので、スクロールしたり前の記事に飛んでみたりして、これが書き始めである事を改めて確認した。

次の一節、「毒親に育てられた大山に親を憎む顔をしろ!と言って撮影したのがこの写真です。」に関しては前回のとおり。


さて。三行目。

親に愛されてない子供時代を過ごすとどうなるかというと、いつまでも親から愛されたい愛されたいという欲求が残ります。

「ここが書き出しじゃないのかな?」と思わせたのは、この一節だったかもしれない。

本の紹介文だし、ここで展開されて自然なのは本の主張する内容や、「世の中ではこういう事があるが、それについて作者はこう主張している」と本の主張する内容に繋げるための前フリなのだが、これは「清水氏自身の考え」に見えたわけだ。


さて。
ふつうに会話の中で、
「親に愛されない子供時代を送ると、いつまでも親から愛されたいという欲求が残るもんだと思わないか?」
と問われたとすると、わたしは、
「問いが漠然としすぎてて答えかねる」
だろうと思われる。

「一般的に言ってそういう傾向がある」という話なら「ふうん、そうなのかもな」と思うだろうし。
「何らかの形で親から愛されたいという欲求が残り続ける」という話なら、それなりに興味を持って続きを聞く、というところか。
だがただ「親に愛されない子供時代を送ると、いつまでも親から愛されたいという欲求が残るもんだ」と言われただけでは、それによって何を言いたいのか、どこに行こうとしているのかわからないのだ。

そこで出て来る次の文が、

愛されもしないけどね。

である。


ええ…?
と思った。


「いつまでも親から愛されたい愛されたいという欲求が残ります。」

「愛されもしないけどね」

というこの流れは、完全な被虐だと感じた。


虐待を受けた人、愛してもらえなかった人たちというのは、この文のメインオーディエンスにあたるはずである。
その人たちに同調し、理解を見せるような事を言っておいて、突然掌を返し、彼らの心に最も深く刺さるであろう事を言って突き放す。
相手をある程度よく理解した上で、その理解を用いて相手をより深くより効果的に傷つけている辺りから、傷つけること自体が目的にある事が推察できる。

「ああこの人も同じ事をやられたんだろうな」と思った。
なんとなく、という程度の話でしかないが。

にしても、一体何をやっているのだろう。自分がどれだけグロテスクな遊びに興じているか、自覚がないのだろうか。


私であれば三才の頃に父親は私を捨てて出ていきました。

自分自身の事についてはこれしか語らなかったのは、(別の機会に赤裸々に語ることがあったとしても)これらがセンシティブな問題だからではないのか。

一方他人である大山さんの事は、こんなに赤裸々に語っている。

大山なら母親は殴るし風呂場にたたきつけるし罵倒するし死にかけの病になってもほとんど見舞いにも来ない、レイプ未遂に何度あっても相談すら出来ない、そんな状態です。

赤裸々に語るどころか、想像だけで下した断定を色々とつけくわえている。

その上、レイプ未遂の話をもし聞いたら親は大山に何で相談しなかったの!!!と責めるでしょう。違います。相談できないような信頼関係を親が子供と作ってしまったことが問題です。


これらの段落が言ってることは単に、「親が子供にこんなひどい事をする」という事だ。それを言うためだけに、自分に関しては「三歳の時に捨てられた」という抽象的な話に留め、大山さんの名前を出し彼女の虐待体験だけでなく性暴力被害について赤裸々に語っている。

つまり、大山さんのトラウマを、自説の正当性を主張するための根拠として利用するために遠慮なく曝露している。「親がひどい事をする」というだけなら、自分が親にひどい事をされた体験の話をするのでも全然良いような状況で。


本の紹介文であるはずなのに、なんと、当の本の中身に触れる箇所はこの記事を通して皆無である。
開陳されるのは、清水氏自らの経験に基づく清水氏の考え、それだけだ。
いや、「考えの開陳」と呼べるような代物ですらない。

最終的にそれを強引に、内容を何一つ紹介してもいない本を(しかも十冊まとめて)買ってくれという宣伝に繋げているが、本気で宣伝する気があるなら少しぐらいは本の中身にも触れるだろう。

要するに。

清水氏が、自分が傷ついたのは自分のせいじゃなかった、親が悪いんだと訴えつつその憂さを(大山さん他虐待や性暴力のサバイバーといった弱さを持つ人たちに対して、自分が経験させられたのと同種の残酷さを経験させることで)晴らしている、という事なんだと思う。

子供の地団駄のような。

そして清水さんはここで大山さんを、一人の人間としてではなくただの小道具とかサンドバッグぐらいにしか扱っていない。




今色々と迷ってて、その救済を求めて清水さんの方を見た人ならまあ、その人のいいところだけが見えてしまってもしょうがないと思うんだけど。

自分たちが人権とか社会とかいうものに対してまともな認識を持っているという前提で「悪と戦ってる」そぶりをしていて、それなりの教養も持ち合わせているはずの安冨さんだのうがやさんだの本間さんだのが、これをどうやったらおかしいと思わずにいられたというのか。

今彼らがどうやってこの状況で未だに図々しく自己正当化と自己賛美に明け暮れていられるのだろうとか、どの面下げて社会正義追求してるフリできているのかとかも不思議でしょうがないけど、たぶん同じ仕組みなんだろうな。


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