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怒涛のアルペジオ問題

J.S.バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」BWV903を引き続きさらっております。幻想曲の冒頭のスケール部分がちょっとサマになってきたかな…と思っていたところへ、次の疑問が生じてきた。

28小節めから49小節めまで、二分音符の和音が連続する部分が続く。arpeggioという指示がある。

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最初のうちは下の音から順番に積み重ねるように弾いていたが、二分音符は長く、それだけではなんとなく間がもたないと感じていた。たしかに、下の音から順番に弾いていくのであれば、下の図の赤マル部分のような記号がついてるはずだ。

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では、arpeggioと指定された怒涛の和音の連続をどう弾いたらよいのか?研究のため、まずはいろんなピアニストの録音を聞いてみた。

下の音から順番に上がっていき、一番上の音を弾いたらまた順に下がってくるという弾き方が一般的のようだ。しかし、楽譜上の和音に含まれる音の数がそれぞれ違うため、一様に拍に収めるのが難しい…それに、みなさんそれぞれに微妙に違う弾き方をしているようだ。ところどころに積み上げ式を入れてみたり、最高音から下がってきてまた上がるという弾き方を入れている人もいる。

不安だったので、最近お近づきになったピアニストの方に聞いてみたら、彼女のご友人でこの曲をレパートリーにしている方に聞いてみてくれた。その方は、和声的に正しければ和音は必ずしも楽譜通りでなくともよく、即興的に弾いているとのこと。言葉で説明するよりもわかりやすいからと、すぐにご自分の演奏動画を送ってくださった(感謝!)。透明感のある美しい音色で、波のようになめらかなアルペジオが奏でられておりました。

それからは即興的に弾いてみる練習をはじめてみたが、場所によってはどうにも収まりが悪いし、辿々しくなってしまうところもある。自然に、即興的に弾けない。真似できそうな他人の演奏を楽譜に起こしてみたりしようかなぁ…最終的には自分のセンスで即興的に弾くのだけれど、もう少し手がかりになる知識がないと、練習の方針も立たない。

そこで、さらに参考になる文献とか映像とかがないものかとネットを探していたら、「J.S.バッハ《半音階的幻想曲とフーガ》BWV903演奏習慣をめぐる試論ー出版譜にみる〈幻想曲〉のアルペジオ奏法」という論文が見つかった。掲載誌は身近な図書館にはなく、購入もできないようなので、国立国会図書館に遠隔複写を申し込んでみた。手元に届くまではけっこう時間がかかりそうだが、内容がとてもたのしみ。

自分はHenleの原典版を使っているが、現在出版されている楽譜の中には、演奏例の譜面が載っているものもあるようだ。そういうのを探してみるのも手かもしれないなぁ…と思いつつ、毎日ポロポロとアルペジオの箇所も弾いてみているところです。

従来、この「幻想曲」はなんとなくオルガンの響きを連想させる、荘重な感じの曲だなぁと思って弾いていたのだが、アルペジオの弾き方を変えたら、ハープみたいな、水のうねりのような感じで、印象が変わった。そりゃそうだ、「アルペジオ」とは「ハープのように」という意味の言葉だった(笑)

そんななか、村上春樹「古くて素敵なクラシック・レコードたち」を読んでいたら、カール・ゼーマンというピアニストのことが書いてあった。

このレコードを聴くまで、カール・ゼーマンというピアニストは名前こそちらっと耳にしていても、実際の演奏を演奏を聴いたことはなかった。ドイツの中古店で、この10インチの古いレコードを見つけて買ってきたのだが、一聴してその音楽の姿勢の良さに強く打たれた。そうだ、こういうモーツァルトを聴きたかったんだよな、という音がまさに朗々と鳴っている。[中略]こういう音楽に巡り会えるのって、実に至福です。

カール・ゼーマンという名前はまったく知らなかったが、こういう一昔前の正統的なピアニストならバッハも録音しているのでは!とピンときたので、すぐにAmazon Music Unlimitedで探してみたところ、あったあった。ドイツのピアニスト、カール・ゼーマン(1910-1983)は大量にバッハの曲の録音を残しており、BWV903もありました。そして、この演奏にはかなりがっつりと心を掴まれた!

特に問題のアルペジオの部分!この人のはぜんぜん違う。和音をまずそのまま弾いてから、残りの音を上昇・下降させている。しかも、メロディーが進行していくにしたがって低音がズシーンと響いてくる。ハープみたいじゃない!全体に低音を重く響かせているところが多く、実に荘重な感じ。なんか他の人が弾いてるのとは違う曲みたいだ。

さらに驚いたのは、幻想曲の最後、70小節め以降の単音部分すべて、ユニゾンで弾いている!こういう楽譜もあるんですかね?現代ピアノだけでなくクラヴィコードとかチェンバロのものも含めて、いろんな録音聴いたけど、この独特のアルペジオとユニゾンはこの人だけでした。

さらに気になったのは、スケールの部分で下降してくるところが自分の譜面と音が違うところがちょこちょこあり、これは譜面では旋律的短音階になっているのを、ゼーマンは和声的短音階で弾いているためのようだ。

荘重な幻想曲の後、フーガの方は非常に気持ちのよいドライブ感で進んでいく。そうそうこのノリ、バッハらしいよね!と気持ちよく聴いていたら、こちらもラストにサプライズが。140小節めから146小節めまでの左手、低音でテーマを弾くところ、ここも1オクターブ上の楽譜にない音を弾いてユニゾン!さらにダメ押しで160小節めの上昇する音もユニゾンで弾いている!

カッコいいです。とてもカッコいいです。実にオルガンっぽい。その他の部分についても、全体の音の粒だちの感じ、テンポの取り方やフレーズの作り方、ダンパーペダルの効かせ方、ゆっくりめの丁寧なトリル、Recitativの部分のさりげない歌わせ方…どれもすばらしい。こういう音楽に巡り会えるのって、実に至福です。村上春樹さん、ありがとうございます。

Wikipediaによると、カール・ゼーマンはブレーメン生まれ。若いとき、音楽の道に進むかそれとも神学を選ぶかで迷ったあと、ライプツィヒで教会音楽を学ぶ道を選んだとのこと。ピアニストに転向する前はオルガン弾きであったらしい。彼にとってJ.S.バッハの曲はライフワークであったのでしょう。モーツァルトやブラームスの録音もあるようなので、少しずつゆっくり聴いていこう。

他にも、往年の名ピアニストたちがBWV903の録音を残しており、どれもそれぞれによさがある。ピリオド楽器の演奏もいい。これだけいろいろな解釈の余地があるから、バッハの世界はおもしろく、底がないのでしょう。引き続き勉強を続けながら、自分の音を追求していきたいものです。

見出し画像は2014年にライプツィヒのトマス教会(J.S.バッハがオルガンを弾いていた)で撮影したもの。

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