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クミと教会

はじめに

こんにちは。聖書系Vtuberの足袋田クミです。この記事では私が「神は存在しない」と言って神学校を退学してからどのように教会と付き合ってきたかの経緯を説明したいと思います。マシュマロに質問をいただいた件への、ちょっと長めの回答としてこの記事を書かせていただきます。

経緯となるTwitterのリンクを貼っておきますが、基本的にはこの記事だけで内容を完結させたいと思っています。

神学校に入るまで(おさらい)

クミの両親はクリスチャンで、クミ自身は小さい頃から教会に通い、中学生の頃洗礼を受けました。大学生の頃に牧師になることを決意し、小さな神学校に入りました。この頃はまだ神は存在すると思っていました。

神学校を退学した件

一年半ほどたったころ、自分の自然科学的な思考と福音派的な信仰に折り合いをつけられなくなり、朝布団の中で「神は存在しない」という天啓を受けたのち、一日布団の中で悶々として唸りつづけ、神学校をやめなければならないと考えました。

というのも、この神学校は実質牧師養成校であり、同級生たちも牧師を志すメンバーであったため、このまま牧師を目指さないというスタンスで学びを続けられそうにないと考えたからです。

さらに言えば、これはあくまで私の頭の中で考えたことですが、「神は存在しないと言いながら説教や牧会をする牧師として自分の教団に所属することはおそらくできない」と考えました。そのような牧師が必要とされる場面・教会を想像できませんでした。

このようなことを教授たちと話し合い、私の考えが変わらないことを確認すると、退学を認めてもらえました。「クミさんの信仰が回復することを祈りつつ、今学校を離れることを認めざるをえない」みたいなことを言われた気がします。私は心の中で悪態をつきました。今は少しそのことを恥じています。

母教会の牧師と面談

私を推薦してくれた母教会の牧師と当然この間に話をしました。私の話を聞いた牧師は重い口を開き、「それは、つまりクミさんが信仰を失ったということなんだろうか」と言いました。私は文字通りの胃の痛さを噛み締めながら「そうとってもらっても構わない」と答えました。

私は教会の籍を抜けたいと言いました。しかしそれには思いもよらない返答があって、「(この)教会は転籍や召天という形以外で籍を消す仕組みを持っていない」というものでした。洗礼という恵みは人の側のあり方に依存しないから、というのが理由でした。私は騙されたような説明だと思いつつ、感想を飲み込みました。

私は(よくあることのようですが)神学校に在籍する間、母教会からサポートを受けていました。無条件でいただいていたものでしたが、蟠る気持ちがあり、牧師と相談しました。それは決して返還すべきというものではない、と言ってもらえましたが、私は「新たに職を得たら月定献金として教会に少しずつ返していきたい」と言いました。自分の気持ちを整理する意味でもその方がいいと思ったのです。牧師は私の言葉に頷いていました。

うつ病

今振り返ると、私は明らかに神学校に在籍しているときから病気でした。精神科の門を叩いて、しばらく療養生活に入りました。病気があの頃の状況を少しややこしくしていた気もします。しかし、学校を離れて半年くらい経っても、私の気持ちは「神は存在しない」というラインから離れることはなく、むしろそこに綺麗に収まっていきました。

新しい生活様式

礼拝

日曜日の礼拝に行かなくなりました。礼拝するものが存在しないのだから仕方ないことです。仕事を始めてからもただただ日曜日を休日として過ごしていました。

聖書

相変わらず聖書は読んでいました。これは完全に趣味でした。むしろフラットな気持ちで聖書が読めて幸せでした。初めて思想の自由を手に入れたような晴れ晴れしい気持ちでした。

教会の人々

最大の問題は教会にいる友人たちとどう付き合うか、ということでした。

私はとりあえず母教会からは距離をおいていました。しかし、よくよく考えると、割といろんな教会に自分の知り合いがいることに気づきました。

私はある教会の友人たちの溜まり場に日曜の午後から出かけていき、遊んだり話したり一緒に夕食を作ったり、あるいは何もせずただ一緒に時間を過ごしていました。

なんだか書いていて涙が出てきました。私は彼らの優しさに甘えていました。彼らはほとんど私に事情を聞きませんでした。祈らなければならないとき、私がその場にいても気まずくないようにしてくれました。彼らは私を責めませんでした。新しく始めた仕事の愚痴を聞いてくれました。一緒にバカな話をしました。かつての同級生や先輩や後輩がたまにそこへやってきます。私はその繋がりが楽しかった。嬉しかった。

人々の繋がりとは何か

多くの二世宗教者は、自分の意思と関係なく親と同じ宗派のコミュニティに属していると思います。私はキリスト教の教えだの神学だのには色々と文句があります。自分なりの考えがあります。しかし、自分が関わっている人々とのつながりの中で、本質的な意味でその教えの違いやら特徴が問題になることはそんなに多くありませんでした。

概して、私は教会の知り合いが好きでした。

別に私が誰彼構わず問題なく関われるという意味ではなくて、私は神学校を出た後、自分の属しているそのコミュニティ自体にはなんの恨みもマイナスの評価も無いのだと最初からわかっていました。だから、聖書について、キリスト教について、教会についての反論を、恨みを、誰か特定の個人にぶつけたくはないなと思いました。

私は神学校を自分の意思で出ました。それは、教義教理に関わることです。私と教会の間に相違点があればそれは仕方のないことです。

しかし、私は逃げ隠れようとした先の教会に受容されました。

そうしてみてようやく分かったことは、私は教会に居たいのだということ、そして、教会は居ようと思う人を、その人の信仰だかなんだかを理由に締め出したりはしない、ということでした。

アドラー心理学には人を変容させる力がある

神が存在せず人生に意味を与える存在がいないとしても、とりあえず今日を生きて行かなければならないと自分を奮い立たせ、クミは本屋に行き、ハラリとかアドラーを買って読み耽りました。「共同体感覚とかよくわからんがとりあえず仕事せな」と思って就活しました。

仕事はそこそこ楽しかったのですが、やっぱり生きる意味無しに生きるのは大変だなあとかなんとか考えていました。アドラーも結婚しろとか言っているし、「ああ、結婚したいなあ」と思いました。

約一年後、クミは古くからの友人と婚約しました。

伝道を、あるいはライスには塩を

この友人はノンクリスチャン家庭のノンクリスチャンでした。私が神学校に入り出てきた経緯をよく知っており、なんでも話せる気の置けない仲でした。

あるとき私は教会のイベントで手伝いをしていて、友人をそこに招きました。すると恐ろしいくらいに教会の雰囲気に馴染んでしまい、「え? あの人クリスチャンじゃないの?! 普通に手伝わしちゃったけど!」と教会初日から裏方に回ってしまったようでした。

はっきり言って時間の問題でした。友人に「礼拝に出てみたい」と言われました。婚約者を連れての最初の礼拝は、まさに長いブランクを経てからの礼拝復帰戦となったのです。

舌が急に縺れたような

私は賛美歌が歌えなくなっていました。

会衆席にいて、立ち上がるところまでは問題なくできます。しかし何度声を出そうとしても舌が急に縺れたようになり、うまく喋れなくなるのです。主の祈りと使徒信条も同様でした。実のところ神学校退学以来礼拝から足が遠のいた理由のひとつでした。

しかし、礼拝に出席したことのない右も左も分からない友人を手引きしないわけにはいきません。息を詰まらせながら、冷や汗を浮かべながら、なんとか礼拝をやり過ごしました。

感想は「また出てみたい」とのこと。私は耳を疑いました。

クミが持っている数少ない他人に薦められる「答え」

いえ、実はそうなると分かっていました。私は友人が仕事や生活で抱えている問題を聞いていました。クミにとってそれへのレスポンスは、どう足掻いても聖書、聖書、聖書でした。

人の悩み、苦しみ、それに寄り添うために必要なこと。キリスト教が友人にとって益になるものを提供できる気はしていたのです。しかし、それは機能的なこと。あくまで現象的なこと。クミは本当のところ神がいるとは思っていない。それでも、友人にとって聖書の言葉がいかに有益だろうと思いつつ一緒に過ごしていれば、自ずと「礼拝出れば?」という結論になってしまうのです。

友人はついに自分一人で礼拝に出席するようになります。祈祷会にすら出ます。クリスマスの手伝いをします。私たちは結婚式をしました。自分たちの家で。たった二人、共通の親しい友人を呼んで。誓約の文言には「神」の一字を入れず。ただ式次第に、その頃には歌えるようになった賛美歌をひとつだけ添えて。

愛する人が洗礼を受けるとき、クミは存在しない神を呪う

結婚からしばらくして、友人は、私の愛する人は洗礼を受けました。クミは「神は存在しない」と言い続けました。「奇跡も復活もない」「聖書の間違いなんていくらでもある」「ただの神話」「過去の価値観」その他色々。しかし「あなたほど信仰のあつい人をみたことがない」と愛する人は言います。ホンマか? 盛ってない?

それは母教会での洗礼式でした。私は「こういうときどういう顔をしたらいいか分からないわ」と思いつつその光景を眺めていました。もう私には礼拝に出ないという選択肢がありませんでした。私だけ理由もなく礼拝を休んで愛する人に恥をかかせたくなかったのです。

ところで主の祈りと使徒信条は?

この二つがうまく言えないのだと話したとき、愛する人は思いっきり笑って言いました。「神を恐れてるから半端な気持ちだと思って言えないんでしょ? そんな真面目な人なかなかいないよ。心底その文言が大事だと思ってない限り、言うだけなら言えるんだから」

以来私は「こんなものただの言葉だ」と思いながら唱えています。

聖書読めよ

愛する人が洗礼を受けて良かったかと問われると、なんだかよく分からない気持ちになります。しかし、聖書を読むことを生きがいとしているクミにとって、愛する人、共に過ごすパートナーと聖書の話をできることは、間違いなく掛け値なく恵みとしか言いようのないことでした。そうです。クミは愛する人に聖書を読んで欲しかった、一緒に読んで欲しかっただけなのです。

数えてみよ主の恵み

気づけば結婚相手が母教会で洗礼式を受けるという事態になり、クミは母教会に戻ってきました。どうしてこうなったの? 正直よくわかりませんが、あの日教会で嫌な顔一つせず神学校から出てきたクミを受け入れてくれた友人たちに感謝しつつ、クミを母教会へと引きずり出した愛する人にその責任を問うほかありません。

存在しない神への祈り

主よ、なぜなのですか
あなたはおられない
世界はあなたなしに生まれ
あなたなしに滅びゆくのに
主よ、なぜなのですか
私は書斎に籠り
聖書を繙いて
古からの不思議を解き明かそうとしただけなのです
なぜあなたは
私を憐れみ
私の導き手を備え
もといた場所へと私を歩ませるのですか
主よ、あなたはこれから
私をどこへ連れ出そうというのですか
どうか、かつて主の言葉を伝えようと思った
私の幼く青い心を責めないでください
そういうめんどくさいことは
あきなが全部やるんで、はい、あきなにやらせてください
よろしくおねがいします

終わりに

この話はフィクションです。実在ないし仮想現実空間の人物・団体とは一切関係がありません。もしTwitter・YouTube他でこの話に言及すると呪われます。

口を閉じよ。

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